omb505号

 紙面を読んで From Ombudsman505 

 

画・松本 令子

 

 矢吹 道徳

 1966年(昭和41)に大学に入学しました。新入生歓迎実行委員会で最初に聞いた講演は、むのたけじの新聞人としての戦争責任でした。そして2人の友人に誘われて恵庭事件の研究会に参加することになりました。裁判では憲法9条が最大の争点になっていました。
 この裁判で特別弁護人になり、証人として法廷に立った故深瀬忠一先生は当時北海道大学の助教授で、敬虔なクリスチャンでもありました。この裁判闘争の中から代表作「恵庭事件における平和憲法の弁証」を執筆され、平和的生存権の法理を確立しました。この本は、私の憲法学習のバイブルになりました。
 深瀬先生のパリでの下宿を継承されたのが、東北大学の若き助教授、樋口陽一先生です。先生との最初の出会いは、新寮問題での厚生補導協議会との交渉の席でした。その後、東京大学を退官なさった樋口先生が福島で講演したときに再会しました。その折、東京大学で樋口先生と同僚だった米倉明先生から言付けを託され、お伝えしました。
 米倉先生との出会いは、昭和天皇逝去の際、雑誌「世界」に執筆された「一市民の野暮な問い―Z先生への手紙」です。論理学の見本のような論理展開による昭和天皇の戦争責任論に感動した私は、編集部に手紙を出しました。ほどなくして、ご本人から丁寧な返事を頂戴しました。驚いたことにかつて平に住み、中柴光泰先生が恩師とのことでした。米倉先生とはそれがご縁で蔵書寄贈の窓口となり、いわき市総合図書館に「米倉文庫」が置かれました。その後、いわき市に帰郷され、今日まで、おつきあいさせていただいております。
 故安倍首相による「戦後レジュームの解体」によって改憲が政治課題とされ、これまで違憲とされていた「集団的自衛権の一部容認」が閣議決定されました。お2人は立憲主義の破壊に危機感を持ち、社会的発言をするようになりました。そして、いわき市でお2人によるトークセッションを行う機会を得ました。その全容を詳細に記録したのが「日々の新聞」です。
 ウクライナ戦争や台湾有事による安全保障環境の激変により、日本は戦後最も重大な岐路に立たされていると言えます。近代化にあたって市民革命を体験しなかった日本はシュトワイヤン(市民・主催者)の存在しない未完の国民国家かも知れません。現代は同調圧力が強く、国民的熱狂にさらされる社会と言えます。
 「日々の新聞」には先の大戦における「東洋経済新報」の石橋湛山、あるいは「他山の石」の桐生悠々のように、ぶれない軸を持ち続ける抵抗の新聞人であり続けてほしいと思っています。

(新安保法制違憲ふくしま平和訴訟原告団事務局長)

 

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