omb529号

 紙面を読んで From Ombudsman529 

 

画・松本 令子

 

 里見 脩

 江戸期に『南総里見八犬伝』を著した戯作者、滝沢馬琴は「百年以後の知音を俟つ」という言葉を残している。「百年以後、真に理解してくれる読者(親友)が現れるのを待つ」という意味だが、「目先ではなく、百年後の読者に解らせる気迫を持して書く」という覚悟を示したものであろう。新聞は、その時々の事柄を論評するが、100年後に「正鵠を射ていた」と言わせる記事を書けるかどうか。
 アメリカのレジェンド記者、D・ハルヴァースタムにインタビューしたことがある。彼の方から開口一番、「日本にジャーナリズムは存在するのか」と問われ、答えに窮した。「ジャーナリズムは記者が一人立つことが基本で、新聞社は記者の集合体に過ぎない」とし、「日本では単に、新聞社の編集部門に所属する人を記者と呼称しているのに過ぎない」とのこと。次いで「なぜ日本の政治記者は、自身も政治プレーに参加したがるのか」と聞かれた。彼の答えは「記者とは記事を書く者を指す。政治プレーをしたら記者ではない。そいつ等を『政治ブローカー』と言うのだ」とのこと。これに対し私が「ジャーナリズムのスピリット(本義)とは何か」と質問すると、「真理はシンプル(単純)なものだ。正しいことを正しいと書き、悪いことを悪いと書く、それ以外の何物でもない。ただし、正邪を誤りなく判断できるよう日々修練に努めることが必要だ」と即答した。
 武術の免許皆伝書に記されている奥義も、実にシンプル(単純)だ。私が修行する弓道に「正射必中」という奥義がある。心身、左右のバランスが取れた正しい姿勢で射れば必ず的中するが、崩れた姿勢では必ず外すという意味だ。先の「正鵠を射る」は弓道の語で、邪で歪んだ視点では的中、つまり本質を捉えることはできない。日々の新聞には、正しい姿勢を保持し、100年後の読者も頷く記事を今後とも期待したい。

(大妻女子大学特別研究員)

 

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