| 紙面を読んで From Ombudsman | 540号 |

安斉 タツ子
「日々の新聞」の記事は、自分に置き換えて考えさせられる事が多いです。父のすぐ下の弟は、まだ10代だった時、宇都宮の中島飛行機工場で事故により亡くなりました。子供の私には戦争という出来事がはるか遠い過去の事と思っていましたが、歳を重ねた今、戦後80年という出来事が身近に感じられて仕方がないのです。
8月15日号の「日々の新聞」は「目を逸らさずに戦争の愚かさを考えたい」です。お盆には、墓参りをします。実家のお墓の入り口の目立つ場所に、高さ2メートル以上の石柱の上に羽を広げた1羽の鳩が居る石碑(お墓)があります。戦死した祖父の1人目の弟の名と当時の記録が刻まれて建っています。祖父の2人目の弟は海軍兵で運良く帰還しました。3人目の弟は戦地で結核になり、痩せ細って帰る間もなく亡くなりました。
母の兄も戦死しました。戦死の知らせと、髪の毛1本さえも入っていない白木の箱が届きました。明治6年創業の花火工場の4代目となるはずでした。その後、年の離れた母の弟が4代目となり、その孫が今は6代目を継承しています。
結局戦争で、祖父の弟2人、父の弟、母の兄1人の合計4名が亡くなり、1名だけが戦後の日本を生きることが出来たことになります。何と5名のうち、1名だけが、すなわち5分の1の生存率なのでした。これは、日本の国のどこでもありえた話だったのではないかと思います。この命の軽さに驚きます。どうしてこうなってしまったのでしょうか。
「日々の新聞」の3~5ぺージには、「戦争のかけら」特集があります。
もうすでに亡くなった義母の経験談をもとに、鉄の彫刻家である夫が作品を作りました。旧満州の奉天から命からがら、家族9人で引き揚げて来たそうです。鉄道の無蓋車に乗せられ、引き揚げ船の待つ葫蘆島まで、危険一杯の大変な長旅だったそうです。明日の命が分からないので、子供の命だけでも助けたい一心で、途中で子供を現地の中国人に預けた親も沢山いたそうです。夫は無蓋車に乗る人々と子供の姿を作品にしました。
夫の家族は全員、何とか船に乗り、宇品港(現・広島港)に到着しました。旧満州の敗戦後の混乱の中で、多くの子供を1人残らず日本に連れて帰ってきた義父母は生前に、その壮絶な体験を話してくれました。
「戦争のかけら」は、今でも世界中に飛散して広がり、大きく形を変えて、尊い命を奪っています。もう一度、過去の悲劇を繰り返さないためにも故郷のお墓に刻まれた人の、生きた時代に、頭の中でタイムスリップしてみることは、生きて平和を願う私達に大切なこと。
(宮沢賢治学会会員・いわき賢治の会事務局)
そのほかの過去の記事はこちらで見られます。
