omb546号

 紙面を読んで From Ombudsman546 

 

画・松本 令子

 

 気賀沢 忠文

 今年は戦後80年の年である。新聞やテレビは年頭から様々な形でこのテーマを取り上げて来た。日々の新聞も8月15日号と8月31日号で「戦争のかけら」という特集を組んだ。私は「戦争のかけら」という表題に触発されて10年前、ミャンマーのヤンゴンで約1年半暮らしたときのことを思い出した。
 JICAシニア海外ボランティアの仕事を終えてネパールから帰国(2006年10月)した私は協同組合教育を専門とするフリーのコンサルタントとして、アジア農協振興機関(IDACA)で途上国の研修生達に農業協同組合育成について教えていた。2016年、IDACAは外務省の支援を得てミャンマーで農協づくりのプロジェクトを立ち上げ、私が初代所長としてヤンゴン事務所に赴任した。
 このミャンマーへの赴任はネパールでの経験を活かす絶好の機会だったが、一方で個人的には運命的なものを感じていた。なぜならば、父はインパール作戦に出征し幸運にも生きて帰ってきたという経験をしていたが、私たち家族にはほとんど語ることはなかった。だから、ミャンマー滞在中に父の戦争について何かを見つけることができるかもしれないと期待した。それはまさに父の戦争のかけらを現地ビルマで(戦争当時ミャンマーはビルマと呼ばれていた)拾うことだった。
  私の任期が終わりに近づいた頃、日本から1通のメールが届いた。弟からのもので実家の解体の時に父の資料が出てきたという。それは父が所属していた第133兵站病院への賞詞で、昭和20年7月15日付とある。133兵站病院はトング―に昭和19年12月20日開設されたとあった。調べてみるとトング―はヤンゴンとネピドーのほぼ中間にある街であることがわかった。
 兵站病院があったトングーを訪れて見たいと思った。1カ月後に帰国することが決まってから私は休暇を取って1週間の旅に出た。それはトングーを訪れ父の足跡を確認し、激戦場を巡る旅であった。
 トングーではかつての野戦病院を探した。街道沿いの店の女店主に尋ねるとお婆ちゃんが知っているかもしれないと、奥の部屋に案内してくれた。そこにはお婆さんとその家族が集まってきた。
 野戦病院は今の病院があるところだと教えてくれた。この少年に案内させるから見に行きなさいと言ってくれた。そして、当時の戦争の様子を話してくれた。日本兵はこのマンダレー街道を敗走していったが、そのあとを連合軍とアウンサン将軍たちの戦車が追跡する情景を見たという証言を得た。
 案内された病院はかなり大きな建物だった。芝生の庭やコンクリートの渡り廊下には患者やその家族で賑わっていた。構内には大きな木があった。父もこの木を見てこの道を歩いたのだろうか。建物の裏には川が流れていた。父もこの景色を見たのだろうか。ここから日本にいる母と乳飲み子の私を想い、絶対に生きて帰ると自分に誓ったのだろうか。様々な想いが押し寄せ着て心が千路に乱れた。若い医師が私たちを見つけて話しかけてきた。私が訪れた理由を説明したが、その医師は20代の後半だという。父の姿に重なった。
 病院を後にして小学校に案内された。そこはかつての日本軍の根拠地であったという。本部の建物のほかに付属した建物があった。庭には日本軍のトラックが展示されていて、シャーシーだけになっているのだが、運転席のメーターやタイヤのゴムに刻まれたYOKOHAMAという文字が読み取れた。あまりにも鮮やかで生々しく胸が痛んだ。
 劇戦場のザガインでは小高い丘から遠くチンドウイン川を眺めた。この川を日本兵が渡ったのだという現実に黙とうと花を捧げた。
 祖国を戦場にされたこの国で拾った戦争のかけらから見えてくるものをもっと知りたいと思い、また訪れたいと思った。しかし2021年2月に国軍によるクーデターが勃発し叶わぬことになった。
 2017年7月に帰国した私はアウンサン・スー・チー氏が総選挙で勝利し国民が歓喜したことを目の当たりにした。今ミャンマーは戦争の渦中にあるが、自由を経験した人々はやがて自由を取り戻すことを私は信じている。

(ネパールの農民を支援するNPOラブ・グリーン・ジャパン理事長)



 

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