415号

 龍燈は、燕石からでないと見ることができなかったそうですね。夜光虫だとか、ガス、いわゆる人魂みたいなものが水の上を通っているのでは、と言われているのですが、わかりません。もしかしたら、いまでもあるのかもしれません。気象条件とか、さまざまなものが変わってしまい、人の目には見えていないのかな、とも思います。タイミングが良ければひょっとして、とも思うのですが、木が大きくなってしまっていることも、見えない要因になっているのでしょう。

 閼伽井嶽は、霊場と言われているだけに、スーッとした気配のようなものを感じることがあります。それは目に見えるわけではなく、感覚的なものです。たぶん、みなさんも感じることができると思うのですけれども、駐車場に車を置いてドアを開けた瞬間に感じる、空気感のようなものです。参拝者のなかには、そういう話をされる方が、結構います。
 夜も、真っ暗でシンとしているのに寂しくないんです。それは気味の悪いものではなくて、にぎやかな感じです。人の霊とか仏教的なものというよりは、自然のいろいろなものが集まってきている感じです。

 14年後に1300年を迎えます。それだけ存在しているということは、地域との接し方や役割などを、時代に合わせて変えてきた、ということだと思います。いろいろな意味で、いまが変わる時期なのかな、と考えています。
 人口減少で檀家さんが減り、寺の存続が大変になってきます。大問題ではあるのだけれども、それが当たり前の時代もありました。中核になる寺が、いくつかの寺を見ていたわけです。常福寺の場合も、龍燈のころの時代は立ち位置が観光だったわけです。
 観光とは「光を観る」と書きます。それは地域の光であり風景で、恒久的な歴史が軸にないとだめだと思っています。新しく創り出すものではなく、長い時間をかけて育まれたものであるべきです。それにさまざまなものが付随され、スクラップアンドビルドが繰り返されていきます。そうでないと長続きはしません。
 例えばお伊勢参りも「お伊勢様をお参りに行く」という目的があり、それに付随として景勝地とか食べ物ができて来ました。それがいろいろな所に残っている、ということだと思いました。いわきの場合も、そうした発想で精査し、整理していくべきです。それができればいわきという土地は、国内だけでなく海外の人にとっても、かなり魅力的な場所になるはずです。
 閼伽井嶽は、ブナの南限で、ヒノキの自生の北限です。境内から少し降りるとヒノキ林、裏はブナ林で、風景がまったく違います。よく植物の新種が発見されていて、環境省の人たちが2mの高低差で輪切りに調査をしています。
 ですからこれからは、この地域のランドマークとしての位置づけをきちんとつくっていきたいと思っています。龍燈伝説やいま風のパワースポットブームも含めて、イメージしやすいものが多いので、龍燈杉に参拝するための参道をきれいに整備したり、照明を考えたり、燕石の上から海が見えるまで周辺の木を伐採するなど、さまざまなことと取り組んでいくつもりでいます。