424号

1975 青森県むつ市脇野沢にて 撮影:丹野清志

 旧知の写真家、丹野清志さん(白河市在住)から写真集が届いた。手紙が添えられていて、「巣ごもり中、古い写真を編んでみました」と書かれていた。著書名は『日本海景』。オンデマンド印刷で作ったという。時代時代の海景とそこで暮らす人びとの営みが身近に感じられる、いい写真集だと思った。
 1962年(昭和37)夏、18歳の丹野さんは北海道の襟裳岬を訪ねた。ラジオからは島倉千代子が歌う「襟裳岬」が流れていて、北の岬へのあこがれが足を向けさせた。相部屋にさせられたバンガローで1泊し、山道を4時間歩いて幌泉の町に出ると、昆布採りの浜で少年と出会った。それが縁で少年の家に4日も滞在することになる。「北の小さな町でのまるで映画のストーリーみたいな初旅の体験が、私のカメラマン人生の方向を決めたようだ、と後になって思う」とプロローグとして書いた。
 写真家の原点ともいえる襟裳岬での写真13枚を序章として配置したこの写真集は、本編に「海の人との対話」「海をめぐる旅」というタイトルをつけて、日本の海のさまざまな風景と、そこで暮らす屈託のない人たちの姿や表情を切り取っている。
 月刊誌の仕事で訪ね、帰る日に大型台風が襲来して数日間滞在した新島(東京・66年)、山本周五郎の『青べかものがたり』の世界に惹かれて訪ねた浦安(千葉・68年)。そのころから、海辺は開発と公害に揺れ、丹野さんの眼は茨城県の鹿島、鹿児島県の志布志、青森県のむつ、長崎県の諫早などへ向いていく。
 丹野さんは5年前に、この写真集の姉妹編とも言える『海の記憶―七〇年代、日本の海』(緑風出版刊)を出している。当時の写真や文章を編集し、自ら体験した震災・原発事故後の日本の状況と重ね合わせた。そして、「『開発』がもたらした豊かさとは、何だったのだろう。古くから繰り返し行われてきた金銭によって暮らしが売買される収奪の構図と利権の構造は、いまもまったく変わることなくさらに巧妙になっているのではないか。(中略)ちいさなレポートではあるけれど、1970年代に見たことを次世代へのメッセージとして記録しておきたいと思ったのである」(はじめに)と書いている。
 1つひとつ写真を見ながら、福島の海を思う。相馬、双葉、いわきの浜通り。そのほぼど真ん中にある福島第一原発が事故を起こし、大量の放射性物質が海に流れた。それから10年になろうとしているいま、国はトリチウムなどが含まれている汚染水を福島の海に流そうとしている。
 この写真集には、日本全国どこにでもある小さな漁村の姿が、ありのまま写し出され、そこには海を生業にしている潮焼けした漁師たちの姿がある。丹野さんはいつも、襟裳岬でそうしたように地元の人たちのなかに入り込み、会話を交わしてシャッターを切る。その眼差しは温かく、さまざまな悩みを抱えているはずの漁民たちの表情は無垢で輝いている。
 「海辺で人と出会う。それだけで海の表情が変わる。海の人びとは、その日のことを毎日淡々と繰り返しているだけのことなのだが、記憶にある海を振り返る時、あたりまえの暮らしというものがどんなことなのかを、そして海とともに生きる人びとの姿が海をうつくしくしていたのだということに気づくのである」
 丹野さんの言葉だ。