石仏群を見つけたのは、いわき市折戸の吉田忠正さん(77)と中之作出身で中央台在住の吉田充さん(65)。2人はNHKいわき文化センター古文書講座に通って小野一雄さん(いわき歴史文化研究会代表)の指導を受けながら、中之作古文書研究会を立ち上げ、古文書を読み解いて中之作折戸などの歴史を調べている。江戸時代に新島襄が中之作に入港した際に泊まった宿、「仙臺屋」の場所を特定した実績もある。
88体尊を探すきっかけになったのは、小野さんから渡された2枚のコピーだった。1つは「廻国巡礼供養(五)八十八体仏」(昭和48年)、もう1つは草野日出男ふるさとシリーズ第8集『写真で綴るいわきの講と野仏・八十八体巡拝塔』(昭和51年に出版)。紹介されてから50年も経っていないというのに、地区の人さえほとんどわからない存在になってしまっていた。
「八十八体仏」に書かれている文章では「今では、土地の古老からも、どのようなものか伺うことができず、参道への入口も、荒れた納屋裏を通る路地で人目にはつかない」となっていて、写真も人影がなくひっそりとしている。一方、草野さんのものは「馬落薬師の縁日には中之作や永崎の人たちがお参りに登る」とあり、写真には子どもの姿が写っている。発表された日時に3年のタイムラグがあり、写真をいつ撮って原稿はいつ書いたのかがわからないためになんとも言えないが、非常に対照的な内容と言える。
2人は昨年10月、88体尊の近くに住む人の記憶からおおよその場所を割り出し、今年の2月22日に鎌を持って急斜面を登った。ガサ藪を通って頂上までたどり着いてはみたが石仏は見つからず、諦めながら下っていくとコンクリート製の祠があった。そのなかに石仏が1体安置され、付近にも草に埋もれている石仏を確認した。上がり口から80mほどの場所で、その日は約2時間で60体を見つけた。石仏は、まるで西国順礼にあやかろうとでもするように、西の方角を向いていた。
2回目の調査は5月14日。仏像それぞれに番号札を付けて石仏79体と石碑2体を確認した。石仏は高さが40〜50㎝ほど。馬頭観音、弥勒菩薩、不動明王などさまざまだが、材質が堆積泥岩と見られることから摩耗が激しく、表情がわからないものもあった。読めなくなっていた石碑を拓本すると「宝暦四 甲戌年 奉為大乗妙典日本國二世安楽 十月吉祥日 法師善心」、もう1つの石碑には「奉納大乗妙典六十六部日本巡回供養塔」と刻まれていた。
「法師」は僧のことで、「六十六部」とは、66の法華経を書き写して66カ国の主な寺に行脚して納める僧ことを言い、江戸時代には手甲、脚絆をつけて6部笠を被り、逗子を背負って鐘を鳴らしながら諸国の神仏を巡拝した人のことを指すことがわかった。
2人が研究している「中山伊左衛門家文書」には争いの仲裁人として「修験南岳院」(永崎村)の名前があり、充さんは、66部の巡礼者が88体仏に注目し、供養塔を建てるために、地域の寺院と関わり合いを持ったのではないか、と見ている。また、坂部万蔵著『人生行路八十年』には馬落薬師の項に「明治五年九月、東光院を永崎蓮乗院に合併し、現今は蓮乗院の別当となる」とある。かつて中之作には東光院という寺があったとされるが現存しておらず、寺の場所についても興味深い。
今回の調査結果は「馬落前八十八体尊」というタイトルを付け、小冊子にまとめた。内容は、石仏の写真や地図、参考資料、充さんの独自考察など。この冊子は、いわき総合図書館にも置いてある。