石川郡浅川町は吉田富三のふるさと。いわきから車で1時間半ほどで行ける。12月中旬、浅川町を訪ね、富三ゆかりの地を歩いた。
中通りの南部に位置する浅川町。人口は6250人ほどで、吉田富三と花火のまちという。富三が浅川町で過ごしたのは70年の人生のなかで小学校卒業までの12年間に過ぎないが、ふるさと創生事業で建設された吉田富三記念館をはじめ、まちのあちこちに富三の存在を伝える碑や像が建っている。
なかでも記念館は富三の生涯、研究、功績、趣味など、富三をまるごと知れるように展示されている。かなりの数の写真や説明文があり、実家の吉田酒造店の掛け時計や、ドイツ留学時代に生活をきりつめて買った愛用のツァイスの双眼顕微鏡、東京大学医学部病理学教室で使った机、シロネズミの解剖標本、プラウベル・マキナというカメラ、たくさんのパイプ、鞄やネクタイなどが、ありし日の富三をリアルに感じさせる。
記念館の東側には「シロネズミの碑」が建っている。その文面は東京・文京区の駒込吉祥寺の富三が眠る吉田家の墓と並んで建てられている、黒御影石のシロネズミの碑と同じ。富三は何度も文案を練り直し、碑に刻まれているのは亡くなる二年前に書いたものを拡大したという。
JR浅川駅近く、富三の実家があった場所はいま、東邦銀行浅川支店が建っていて、そばに「吉田富三先生誕生の地」と刻まれた碑がある。母校の浅川小学校の校庭には富三の名前が添えられた「努力」の碑、公民館には名誉町民でもある富三の胸像がある。まちが一望できる城山公園には富三の句碑「鋸を挽く音遠し秋の暮」が建っている。
浅川町の花火の始まりはいくつか言い伝えがある。江戸後期に起きた一揆の犠牲者の供養というのがその一つ。花火は本町と荒町の各家に代々、一子相伝の秘法として伝えられ、昭和25年に火薬取締法が施行されるまで花火が手作りされていた。
春には夜桜花火、夏は城山が噴火したような迫力の「大地雷火」がフィナーレを飾る供養の花火、秋は農作物の収穫を祝う豊秋花火、冬は除夜の鐘とともに打ち上がる108発の元朝参り・除夜の花火で、春夏秋冬それぞれの季節に花火を打ち上げる。