430号

 「ギャラリー界隈」(佐藤繁忠代表)が1月いっぱいで店を閉めた。童子町、堂根町時代を合わせると通算31年。「界隈」にはいつも、美術関係者や美術好きの市民がいて談笑しながらお茶を飲んでいた。まちのサロンが、また一つ消えた。

 代表の佐藤さん(76)はみんなから「マスター」と呼ばれて、慕われていた。高校を卒業したあと、2度の会社勤めをしながら美術に興味を持った。1971年(昭和46)、26歳のときに脱サラをして平の白銀で画廊喫茶「珈琲門」を始めた。その前年には南町に草野美術ホールがオープンし、画家の松田松男さんなどが集まるようになった。当時高校生だった、秋吉久美子さんも店の常連で、類は友を呼ぶ、というように文化に興味を持つ人たちが自然に集まるようになった。
 その後の佐藤さんは、2年から3年の周期でいったん店をたたんでは旅に出る日々を繰り返し、「らいふ」「界隈」と白銀の違う場所で店を開いた。そうしているうちに人脈が広く、深くなっていった。「らいふ」時代には、いわき初のタウン誌「PeBe(ぺぇべぇ)」の発行人になり、2年にわたって12号まで発行した。いつも若者たちの熱気を受け止め、相談に乗りながら夢実現のために橋渡しをするのが、佐藤さんの役割だった。愛称も「門マス」から始まって「らいふのマスター」「界隈のマスター」と変わっていった。佐藤さんの店は、いわきの70年代の象徴といえた。
 現在の「ギャラリー界隈」は1987年(昭和62)に平字童子町の旧ステージヤマニで始めた。佐藤さんには「民間のギャラリーをやりたい」という思いがあり、それが実現した。「質の高いものを見せるために市外の作家を中心に展示する」という方針にし、だれになんと言われようとポリシーを変えなかった。それを妻の康子さん(64)が支えた。一人娘を育てながらのギャラリー経営だった。
 その店を10年で閉め、少し離れた堂根町でレストランとカフェを兼ねた、新しい「ギャラリー界隈」を始めた。のんびりしていた前の店とは違い、新しい店の昼どきは、客が押し寄せて戦争状態だった。少し休むと夜のパーティーの準備に入らなければならず、2人とも疲労困憊した。
 そうしているうちに、佐藤さん自身が陶芸協会やいわきアート集団の中心的な役割を担うようになり、ギャラリーの展示も地元中心に変わっていった。バブルが崩壊し、景気も冷え込んでいった。方針の転換は2人にとってジレンマで、お客さんからも「いい展覧会やらないね」と言われたが、やむを得ない選択といえた。
 佐藤さんは「わたしは、松田さんなど熱い人たちの傍らにいただけで、なにもしていません。ただ、作家の人たちから『界隈が原点です』といった葉書をもらうと、やはりうれしいですね。童子町10年、堂根町21年。こんなに続けられたのは康子さんがいたからだと思っています」。康子さんも「来るところがなくなって寂しい、と言われました。よくやってきたな、とは思います」と話す。