

相原さんにまとわりついて離れなかった「悲運の名将」という言葉を取り払ってくれたのが双葉高校での甲子園出場だった。このとき47歳。堅い守りと機動力、そして1点をもぎ取る執念を見せて勝った市立和歌山商戦は、相原野球の集大成と言えた。校歌が流れたあと、手塩にかけて育ててきたエース・田中と手を取り合ってベンチに戻る姿からは「よく投げた。ありがとう」という心の声が聞こえた。
相原野球の原点は、磐城高校のグラウンドにある。1966年(昭和41)夏、投手として最後の夏の大会に臨み、1、2回戦はリリーフ、3回戦からは先発を任された。それが双葉戦で、わずか80球の1安打完封。1—0だった。続く田村戦も5安打完封(11—0)。さらに県代表として宮城代表の仙台商と戦い、延長15回を1人で投げ抜き1—0。ついに甲子園に大手をかけた。
ところがこの、福島商との大一番ではリリーフを言い渡された。相手が「仮想・相原」で横手投げ対策を練っていたこと、前日の疲れを考慮しての策だった。しかし先発がいきなり1点を取られ、一死を取っただけで相原さんにお鉢が回ってきた。準備がないままマウンドに上がり、なんとか4回まではゼロに抑えたが、5回に悪夢が待っていた。4死球や失策、テキサスヒットなどが続いて一挙7点。チームは0—8で敗れた。
その後指導者になってからも、いいところまで行くのだけれども勝てない日々が続いた。勿来工では1978年(昭和53)夏、準決勝の安積商戦で8回表まで5—1で勝っていたというのに、二死からエラーが出て逆転を許した。秋、春を連覇した強いチームだった。いいチームをつくるのだが、肝心なところで甲子園に見放されてしまう。まるで宿命のように思えた。
そんな相原さんを双葉に誘ったのは、当時監督をしていて前から交流があった横田誠樹さんだった。赴任してみると、1年生に素質のある選手たちが入ってきた。投手の田中、捕手の遠藤、俊足好打の加藤。相原さんに付いていけず、仲間たちが次々と去って行くなか、この3人が中心になって部をまとめ、14年ぶりの甲子園出場を果たしたのだった。
「後輩たちに言いたい。監督から注意を受けても腐らずに頑張ってほしい、ということだ。わたしも『なぜ自分ばかり怒られるんだろう』と野球が嫌になった時期がある。しかし、『叱られなくなったら終わり』という先輩や友人の言葉を自分に言い聞かせ、3年間頑張れた。注意されるということは、必ず自分に悪いところがあるということ。それを認識し、やらされるのではなく、自分からやるんだ、という気持ちを持ってほしい」
これは、福島大進学を前に交通事故で亡くなってしまった加藤が書いた、後輩へのメッセージ。高い目標を掲げ、妥協せずに練習と取り組み、残った生徒たちと一緒に理想のチームをつくり上げる。それが、相原野球だった。