443号

 無言館展に展示されている作品のなかに、吉田二三男さんの「風景」がある。縦24cm、横33cmほどの板に描かれた油彩画で、左下に「平潟 2602・8・25 吉田」の書き込みがある。
 吉田さんは1914年(大正3)福岡県門司市(現在の北九州市)生まれ。33年(昭和8)に東京美術学校油画科に入学し、若松光一郎さんと同級生だった。卒業後、化粧品会社(中山太陽堂)の宣伝部に就職。商業デザインだけでなく、漫画や絵本の挿絵も描いた。
 43年(昭和18)3月に応召。その時、奥さんは妊娠8カ月だった。翌年11月、満州で戦病死した。30歳だった。亡くなる前日、肺浸潤で満州の陸軍病院に入院していた吉田さんを父が見舞った。吉田さんは枕の下に娘の写真を入れていたという。

 「風景」の絵は出征する前年に描かれた。絵には平潟としか書かれていないが、平潟港の東側にある薬師堂と数艘の小舟が描かれ、茨城県北茨城市の平潟の絵であることがわかる。
 吉田さんがなぜ平潟に行ったのかはわからない。当時、若松さんは東京府立青年学校教員養成所の美術講師をしていた。吉田さんと一緒にどこかへ出かけた記録も不明だ。
 吉田さんは人を笑わせるのが好きで、美術学校時代に芸術祭で赤ちゃんの恰好をして乳母車に乗り、校長先生にあいさつしたエピソードや、ユーモアあふれる絵を描いた戦地からのはがきなどが残っている。