457号

 國玉さんは四倉町生まれ育ち。7人兄弟の6番目で、高校卒業後、12歳上の兄と同じトラックの運転手になった。現在、その兄が社長をしている國玉興業の専務取締役でもある。関東近県が多いが、遠方は九州や四国まで行くこともあり、何でも運ぶ。
 5、6年前には調教師を助手席に乗せて、木下サーカスの2頭の象を横浜から新潟、さらに新潟から仙台まで運んだ。1頭の重さが2トン。カーブでハンドルを切ると、伴って2頭とも動くのが伝わってきて怖い思いをした。
 突然、呼び止められることもある。ある時は、子どもを抱いたお母さんに「お金がないから乗せて」と言われ、野田(千葉県)から大宮(埼玉県)まで乗せたことがある。夫婦げんかをして家を飛び出してきたという。またある時は、飲んで最終電車に乗り遅れた男性を柏から土浦まで乗せた。
 2011年3月11日、國玉さんは午前5時に仙台で荷物をおろし、10時にいわきに向かって出発した。国道6号に入って小高の立ち食いそば屋で昼食をとり、出てきたところで震災が起きた。橋が脱落していて国道6号は通れず、浪江から山道に入ろうとしたが「大型は通れない」と言われ、国道6号に戻ると大勢の子どもたちの姿が見えた。
 みんな寒そうにしているので「どうしたんですか」と、先生に声をかけた。「役場にバスを頼んだが、まだ来てくれない」との説明に「俺のトラックでよかったら乗せて行くよ」と言った。
 國玉さんの15トン車トラックは、前年10月に新しく買い替えたばかりだった。子どもたちと先生たち、地元の人たち合わせて約100人を荷台にのせて、浪江町役場までおよそ5㎞、15分ほど走った。
 その日、國玉さんは通行止めが続いていわきに帰れず、空き店舗の駐車場にトラックを止めて一晩過ごした。翌日の夕方、川俣から船引を経由して、夜にようやく自宅のある四倉に戻った。原発事故を逃れるため、13日には家族で東京の姉の家に避難した。
 1週間後、いわきに戻ってきたが、運ぶ荷物はなく、さらに1週間、休みになった。仕事を始めて関東方面で食堂などに入ると、いわきナンバーのために「ちょっと今回は出て行って」と、言われることがしばらく続いた。
 子どもたちをトラックから降ろした時、國玉さんは名乗らず発進させた。そのあと、どこかで聞いたのだろう。「請戸小学校の子どもたちを役場まで乗せたトラックの運転手さん。お心当たりの方は連絡してください」と、ラジオ福島のアナウンサーが繰り返し呼びかけていた。
 2年以上経ってから、福島テレビが國玉さんを探しあて、取材に来た。震災から3年の節目にはほかのテレビ局も訪れ、トラックに乗って当時の足取りをたどり、いわきに避難していた請戸小の2人の女の子と会った。女の子たちは6年生になっていた。
 浪江町からは「感謝状をお渡ししたいので」という話があったが辞退した。請戸小の先生は「荷台に乗れっ みんな乗せて行ってやる」と、見開きページで大きくトラックが描かれている絵本『請戸小学校物語 平山をこえて』を届けてくれた。
 昨年10月、國玉さんはオープン初日に震災遺構の請戸小を訪ねた。