459号

 吉田さんとは四倉高校でいっしょになりました。ぼくは四倉に13年いましたから、10数年、ともに勤めました。1学期の終業式が終わると、その日のうちに3、4泊の旅行に出かけました。最初の旅行は下北半島で、恐山、寒立馬がいる尻屋崎、大間崎の岬、脇ノ沢猿公苑などを歩き、日本海を南下して帰ってきました。
 忘れてしまいましたが、ずいぶんあちこちに行きました。山登りも好きでね。酒も強くて、飲んで難しい本を読んでも理解できる。囲碁だって、吉田さんに勝てる人はなかなかいませんでした。早く死ぬような人でしたから、人生を最大限、満喫していたんだと思います。

 吉田さんの詩を読んでわかるように、相当、知識が広い。ぼくはいろんな影響を受けました。「重い歳月」は福島地裁の判決があったその日に書いた詩です。ぼくは思いを詩にできないですけれど、吉田さんは見事な詩にしました。
 そのころ、学校の教員で前面に立って運動するなんて、県からはねられることでした。原発に疑問を持ち、平和運動をするぼくや吉田さんのような人は、体制側にとってめんごくない人間です。そのぼくらができたのは県立高教組(福島県立高等学校教職組合)がバックにあったからです。
 吉田さんを埋葬するのに骨壺をあけた時、ぼくは「吉田さん、無念だなぁ」と、骨を1片もらってかじってしまいました。ぼくの骨になってくれ、と。人の骨を食ったのは初めてでした。

 3.11の時、ぼくはいわき市に避難しました。吉田さんの原発の危険性を告発した詩だけを抜き出して、仲間に配りました。吉田さんが生きていたら、この原発事故をどう思ったか――それは、わからないなぁ。
 遺作になった「核の冬に呑み込まれた春」で、正岡子規の「鳶尾の花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」の歌にふれ、翌年は鳶尾の花を見ることができなかったけれど、返ってしあわせだったかもしれない、と書いています。そして自分のことも、それに重ねているわけです。
 事故が起きたら大変な惨状になるだろう、それを見ないで死ぬことのほうがしあわせかもしれない、と。吉田さんが生きていたら、なんと表現したか。詩を書くには相当、苦しんだはずです。