461号

「詩と音楽の集い」であいさつする草野杏平さん=4月23日

 杏平さんは、1942年(昭和17)年から1950年までの8年間、石城郡上小川村(現在のいわき市小川町上小川)で暮らした。その後比叡山へ行くまでの2カ月半ほどを伯父である心平の家(練馬区下石神井の御嶽神社社務所)で世話になり、詩誌「歴程」の発送などを手伝った。天平が1952年(昭和27)に42歳で没したこともあり、心平は事あるごとに甥である杏平さんのことを気にかけていた。
 渡邊さんによると、杏平さんが心平日記に登場するのは約30回。最初は1955年(昭和30)9月1日で、杏平さんは20歳だった。この日は心平や天平の継母なおの7年法要で、一族が集まった。出席者のなかには天平夫人・梅乃さんの名前もある。法要は台東区の薬王寺で行われ、心平が贔屓にしていた銀座の天國で会食をした。
 聞き書きによると、杏平さんは当時、新宿高校(定時制)に在学中で、翌年2月の大学受験を控えていた。教師の1人に詩人の那珂太郎(本名・福田正次郎)がいたという。「杏平氏への聞き書き」では、こんなふうにして備忘録的な心平日記の数行を杏平さんの記憶で肉付けし、そのときそのときの状況や出来事が立ち上がってくるように工夫されている。
 このほか、野球好きの心平が平凡社などと試合をするときには甥たちに声をかけ、そのなかには必ずと言っていいほど杏平さんが入っていた。ポジションはキャッチャーで、ピッチャーは「歴程」同人で詩人の山本太郎だったこともあるという。
 さらに天平忌の段取りのこと、1972年(昭和47)に杏平さんたちがブラジルのサンパウロへ向かう際に、羽田空港まで見送りに来た心平から餞別として「一路平安」という自筆色紙を渡されたこと、心平夫人のやまさんが亡くなったときにサンパウロの杏平さんや梅乃さんから弔電が届いたこと、福島県の川内村にある天山文庫での交流などが、思い出として語られている。
 また、上小川時代、杏平さんは心平が営んでいた貸本屋「天山」(磐越東線の小川郷駅近くにあった)の店番をさせられていて、その様子も話している。よくあることだが、男の子は実の父親よりも、伯父(叔父)さんの方がざっくばらんに話がしやすい。
 杏平さんは1988年(昭和63)8月、梅乃さんと一緒に武蔵野日赤病院に入院していた心平を見舞ったときに、「なぜ、うちの親父(天平)だけ、あまり教育を受けられなかったのですか?」と思い切って尋ねたという。すると心平は「そのうち話をしてやろう」言ってくれたが、その3カ月後(11月12日)に亡くなったために、それが最後の会話になった。
 この「聞き書き」には、研究などで公になっている「詩人・心平」ではない「私人・心平」の姿を垣間見ることができる。そういう意味で、心平周辺のディティールが見え隠れしていて興味深い。アプローチが新しいだけに、とても新鮮だ。