大黒屋の創業は明治34(1901)年。初代の馬目勝次郎が妻のヨネとともに平三町目15番地で化粧品・小間物屋を始めた。勝次郎は四町目で化粧品や小間物を扱っていた鶴屋で修業したあとに独立したのだった。その24年後(大正14年)には三町目40番地(現在の常陽銀行の銀座通りをはさんで向かい)に衣料品を扱う平支店を新築開店し、商いの幅を広げていった。
昭和4年(1929)には創業者の勝次郎が死去。二男の久二が2代目勝次郎を襲名して跡を継いだ。このとき、まだ21歳の若さで、下にはまだ幼い弟や妹がいた。商売の中心は小間物から衣料品に移り、昭和13年には銀座通りの支店を建て替えて3階建てにし、面積を約3倍に増した。
しかし終戦間際の昭和20年(1945)7月28日午後11時ごろ、B-29が200発以上の焼夷弾を落とし、平駅(現在のいわき駅)前から南の方向に田町、三町目、大町などが焼けた。この空襲で大黒屋の自宅を兼ねた本店が全焼してしまった。一家は大町での仮住まい生活になった。
大黒屋の躍進は戦後から始まった。昭和21年に会社組織を「株式会社大黒屋」にすると翌年には本店を再建して化粧品の卸を始めた。さらにその2年後には低マージンによる「高回転主義」を打ち出した。品物があれば売れる時代で、薄利多売を実践しながら事業を拡大していった。
当時の従業員たちは大きな風呂敷を持って夜行で東京へ向かい、日本橋小伝馬町あたりの問屋を回って反物などを仕入れてとんぼ返りした。いわゆる担ぎ屋。そのうち仕入れ部を設け、東京に1軒家を借りた。当時のキャッチフレーズは「皆様の利益を護る店」。物不足の戦後、安い値段で積極的に品物を提供した。その利他の精神がのちの、「市民、地域とともに歩む大黒屋」の精神になっていった。
戦後は朝鮮戦争特需、高度経済成長の波に乗って多店舗展開をしていった。炭鉱や漁業が地域を潤していた時代で、昭和26年の「ストア湯本店」を皮切りに、小名浜、内郷(金坂)、植田店をオープンさせる一方で、昭和35年(1960)には平支店の場所に地下1階地上5階伊達の平百貨店を建て、三町目だけでなく平の中心店舗になった。
その2年後、平本店を家電を心にしたファミリー・センターにし、その3年後には家電販売をやめ、平百貨店の地下にあった食品売場を平本店に移して食品ダイヤストアーに衣替えした。その流れで平百貨店は食堂を除いてすべて衣料品の店になり、翌41年には6階建てに増築された。屋上には遊園地が置かれた。そこからは平の町がよく見えた。