新地町の漁師 小野春雄さんのはなし
漁師は海洋投棄にみんな反対している
わたしは昭和27年、新地町の漁師の家の長男として生まれました。漁師は祖父母の代からで、3人のわたしの息子たちも漁師をしています。新地町は江戸時代の記録に「カレエの名産」と残っていて、古くから漁業がさかんな地域です。
物心がつくころには家業の手伝いをし、家業を継ぐつもりで、中学3年生の時に船舶無線の免許を取得しました。中学卒業後は本家の乗り子になり、30歳の時に、船長になりました。船長になると一人前の漁師と認められます。
海の仕事は魅力があります。わたしはさまざまな漁法で、いろいろな魚種を捕ってきました。漁師は海から自然の恵みを得て収入とし、海に畏敬の念を持って接しています。宝の海は過去、現在、未来に引き継がれるものと考えています。しかし東日本大震災、福島原発事故により、漁師は困難な状況に追い込まれました。
2011年3月11日、わたしは漁を終えて、家族と居間で休んでいた時、大きな揺れに見舞われました。昔から、この浜で津波の時は沖に避難する、という言い伝えがあります。わたしは長男と船を沖に出して助かりましたが、弟は沖出しに遅れて船ごと津波にのまれました。弟、おじ夫婦など家族五人を亡くしました。
そして福島県は放射能汚染で漁ができなくなりました。わたしは漁師を継いでくれた3人の息子たちの将来を考えて、一時、不安になり、それが原因でストレスになって通院したことがありました。
徐々に試験操業が拡大されるなか、国と東電は放射能に汚染された水を海洋投棄することを決めました。放射性物質を海洋投棄する大義名分はありません。薄めて流せばいいという問題でもありません。
原発事故前は、1週間に6日は自由に漁ができましたが、いまでは月に10日ほどに制約されています。自由に漁ができないというのは、仕事をしたいのに仕事を奪われているということです。苦痛で仕方ありません。
廃炉がいつになるのかわからない。賠償が打ち切りになるかもしれない。漁業が続けられなくなるかもしれない。こうした先の見えない不安に、わたしは「もう年だから」と、自分に言い聞かせようとします。しかし漁師を継いだ息子たちを思うと、やはり不安でなりません。
原発事故後、例えば、ヒラメが1㎏300円で買われていたのが、いまは1㎏3000円になりました。しかし、もしもヒラメから基準値を超える放射能が検出されたら出荷停止となり、価格は大幅に下落します。
そんなことがあれば、これまでの漁業関係者の努力は一瞬にして吹き飛んでしまいます。いまもクロソイなどは出荷できません。漁師は海洋投棄にみんな反対しています。国と東京電力は昨年7月に、相馬双葉漁業組合の組合員を対象に、海洋投棄の説明会を開催しました。その場で、組合長も含め組合員たち全員が反対し、海洋投棄に賛成した者はおりません。
海洋投棄を容認すれば、必ず大きなしっぺ返しを受けます。わたしたち漁師が求めているのは、海を汚さないこと。そして放射能汚染に悩まされず、早く廃炉が無事に終わり、本格的操業に戻って、子々孫々、漁業が続けられることです