412号

 わすれな草のこと412号 

 1カ月ほど前、鉢植えのわすれな草の花が咲き始めているのに気づいた。鉄の彫刻家の安斉重夫さん、タツコさん夫妻から3、4年前にわけてもらったもので、毎年、小さなブルーのかわいらしい花を咲かせる。
 わが家にとって、わすれな草は父と犬のるんるんを思う花でもある。父が他界してお墓を建てる際、墓石にわすれな草を刻んでほしい、と石屋さんに頼んだ。初めはエーデルワイスを無理無理お願いしたが、薄い石版の両面 を使っての試作は残念ながらエーデルワイスに見えず変更した。 
 ところが小さな花をいくつも刻むのは難しく、最終的には山に落ちついた。晩年まで毎年のように登っていた吾妻山か、河童橋からの姿がかっこいい穂高と言いたかったが、ずいぶん困らせたので普通 の山にした。 
 石屋さんとのやりとりのあとも、エーデルワイスとわすれな草が頭から離れず、高山植物のエーデルワイスは難しいのでわすれな草を育てたい、とわけてもらったのだった。そのあと、るんるんが死んでしまい、犬小屋の周りに種類の違うわすれな草を植えたが、そばに立つ月桂樹の根と、長年るんるんが踏みつけて固くなった土のせいで、根づかずに枯れてしまった。 

 山下景子さんの『花の日本語』によると、ドナウ川のほとりに咲いていた瑠璃色の花を恋人につんであげようとして足を滑らせ、流されて亡くなった青年が最後に叫んだ「わたしを忘れないで」の言葉が、花の名前になったという。 
 鉢植えのわすれな草はまだ咲いていて、出勤前にあいさつしている。「石に刻むのが難しいなら、お墓にわすれな草の鉢植えを置くのはどうですか」と、聞いた時の石屋さんの顔がいまも忘れられない。

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