同い年として思う | 415号 |
帰宅する車で聞いていたニュースでその訃報は流れた。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお父さんで、拉致被害者の家族会の前代表だった滋さんが亡くなった。87歳だった。40年以上探し続けた娘に会えないまま、この世を去った。
めぐみさんと同い年なので、時折、想像する。あの日、昭和52年(1977)11月15日、中学1年生のめぐみさんは、いつものように家族と朝食をとって学校に行き、授業を受け、放課後、バトミントン部の練習をして家路についた。
日本銀行の職員だった滋さんの転勤で名古屋、東京、広島で暮らし、拉致される前年、新潟に越してきた。あのころ風疹が流行して、クラスメートの多くがかかった。めぐみさんは中学校の入学式直前にかかり、式には出席できなかった。
テレビなどでよく目にする、中学校の桜並木の下で真新しい制服を着ためぐみさんの写真は治りかけの時で「こんな顔じゃいやだよ。恥ずかしい」と言うのを、滋さんが連れ出して撮った。その制服姿であの日、めぐみさんは忽然といなくなった。いつもの時間になっても帰宅せず、滋さんたちは必死で探した。
前日は滋さんの45五歳の誕生日で、めぐみさんは「これからはおしゃれに気をつけてね」と櫛を贈った。明るく朗らかで、歌ったり絵を描いたりするのが好きだったという。あのころピンクレディーがはやっていたから、友達と振りつけを真似て歌っただろう。
滋さんの訃報から数日後の全国紙の読者の欄に「めぐみさんの心を思う」と、やはりめぐみさんと同い年の女性の投稿が載っていた。北朝鮮の工作員に連れ去られた時の恐怖、その後の絶望と希望…。新潟の海岸を歩いた時にも思った。同い年として、わたしたちにできることは。
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