419号

 「長崎の鐘」のこと419号 

 長崎にアメリカが原爆を投下してから、8月9日で75年を迎えた。このところ、古関裕而と仲間たちのことを調べていたので、その日は「長崎の鐘」の歌が繰り返し巡っていた。
 前日、NHKの「ライブ・エール」で、ミュージカル俳優の山崎育三郎さんが歌う「長崎の鐘」を聞いたのもあるだろう。朝ドラ「エール」で山崎さん扮する佐藤久志のモデルは歌手の伊藤久男。従兄弟の早稲田大学応援部の幹部だった伊藤戊(しげる)が、久男の下宿で古関と会って、応援歌の作曲を依頼した。それが「紺碧の空」だった。
 「長崎の鐘」は昭和24年(1949)4月、藤山一郎の歌でコロンビアから臨時発売された。録音の日、藤山は風邪をひいて高熱があったが、そんなことを感じさせない格調の高い仕上がりだった。
 以来、多くの人に愛され、歌われてきた。昭和25年に小学校に入学した初代フラガールの小野恵美子さんも「長崎の鐘」を学級でよく合唱した。担任の先生は折にふれ、戦場で倒れた兵士や空襲で亡くなった人々、平和の尊さを話してくれた。
 
 発売の翌年、藤山はアコーディオンを抱えて歌のきっかけになった長崎の永井隆を訪ね、枕元で「長崎の鐘」を歌った。永井は浦上の人々や教会によって建てられた2畳1間の如己(にょこ)堂で、2人の子どもと暮らしていた。歌のお返しに「新しき朝の光のさしそむる あれ野に響け長崎の鐘」と詠んだという。
 その翌年、永井は43歳で亡くなった。如己堂で過ごした4年半の間に『長崎の鐘』など17冊の著書を残し、大切なことをいまに伝えている。

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