深田久弥の『日本百名山』 | 428号 |
石川郡浅川町の吉田富三記念館に、富三の一高時代の写真がある。東京の中学で学ぶため上京して叔父・勝弥の家に寄宿したが、一高に入学すると同時に寮生活を始めた。その寮には堀辰雄や小林秀雄、深田久弥などがいた。
2021年は『日本百名山』でよく知られる深田久弥の没後50年という。1971年3月、山梨県の茅ヶ岳山頂近くの尾根で脳卒中のため、68歳で急逝した。『日本百名山』が出版されたのはその7年前、東京オリンピックが開催された年だった。
「あとがき」でふれられているが、深田が日本の主たる山にすべて登り、百名山を選んでみようと思ったのは戦前のことだった。「山小屋」という雑誌に「日本百名山」と題して連載を始めたが、20の山を紹介したところで廃刊になった。1959年に雑誌「山と高原」で再び連載を始め、終えた翌年の1964年に単行本が出された。
深田は少年時代から山登りを始め、生涯、登り続けた。百名山を選ぶにあたっては、山の品格、歴史、個性、高さ1500m以上の基準を持った。リストを作って選択し、7割はスムーズに選べたが、あとの3割は苦渋の選択だったという。
文筆家で登山家でもあるので『日本百名山』は単なる山の紹介でも、登山ルートの案内でもない。読みものだ。それぞれの山に、こころに残る文章が散りばめられている。
登山初心者にいつも勧めている月山を例にとると「優しく——それが月山である。北の鳥海の鋭い金字塔と対照するように、それは優しい」と書いている。
月山北面八合目からの登山は湿原とお花畑、雪原、急坂の行者返しなど、山登りの楽しみがつめこまれている。久しぶりに月山の頂上を目指したくなった。
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