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佐藤慶太郎のはなし | 503号 |
ストリートオルガンでふれた、山の上ホテルのシンボルのアールデコ様式の建物を建てた佐藤慶太郎は、日本初の公立美術館・東京都美術館の生みの親と言われている。
佐藤は福岡から上京して明治法律学校(現在の明治大学)で学んだ。しかし病気がちで卒業後は故郷に戻り、石炭商の店に就職し、やがて石炭経営に乗り出した。抗夫の賃金が安い石炭不況の時に坑道を掘り進め、好景気に一気に掘り出して販売するなどして事業を発展させたという。
持病の胃腸病の悪化し、主治医に「事業をやめないと命の保証はできない」と言われ、53歳で引退。その時、若いころに読んだ資産家のアンドリュー・カーネギーの伝記を思い出し、事業を整理して築いた財産を社会奉仕に使うことを決意した。
そんなある日、東京で宿泊した宿で新聞「時事新報」の社説「常設美術館」を目にした。「西洋諸国の大都市にはその国の文化を代表する常設美術館があるが、日本には博覧会ごとに建てる美術館しかない。心ある人の寄付金を募って美術館を建てよう」という内容だった。
佐藤は東京府に美術館建設費として100万円(現在で約33億円)の寄付。それによって、資金難で頓挫しかけていた東京都美術館が創設された。
佐藤の座右の銘は「公私一如」。自分の財産は社会からの預かりもので、世の中に返すのは当たり前と考え、実行した。「今日と云う1日の外はなかりけり 昨日は過ぎつ 明日は知られず」。佐藤はそう言葉を残している。
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