原爆裁判のはなし | 517号 |
9月6日に放送されたNHKの朝ドラ「虎に翼」(第115回)では「原爆裁判」の判決が言いわたされた。終盤の4分、裁判長の汐見圭は主文をあとに回して、判決理由を読み上げた。
昭和30年、広島と長崎の被爆者五人が大阪地裁と東京地裁で訴えを起こした(昭和35年に大阪地裁の訴えは東京地裁に併合された)。原爆投下の違法性が初めて法廷で争われた国家賠償訴訟。弁論準備などの手続き後、昭和35年2月から昭和38年3月まで9回の口頭弁論が行われ、12月7日の判決となった。
山我浩さんの著書『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』によると、その裁判の記録は判決文を除いて、すべて廃棄されたという。そのため現存している資料の大半は、担当した弁護士から預かった日本反核法律家協会の会長の事務所に保管されている。
寅子のモデルとなった三淵嘉子さんが東京地裁の判事時代、この裁判に携わった。裁判は8年に及び、裁判長と左陪席は何度か代わったが、右陪席(次席裁判官)だった三淵さんは最後まで担当した。しかし生前、三淵さんは原爆裁判についてまったく語らず、裁判官を退職後、核兵器禁止の署名活動をしていたという。
裁判長の汐見が読み上げた判決理由と判決を要約して紹介する。
原子爆弾による襲撃が仮に軍事目標のみを攻撃目的としたとしても、その巨大な破壊力から盲目襲撃と同様の結果を生ずる以上、広島、長崎への無差別爆撃として、国際法からみて違法な戦闘行為であると解するのが相当である。
人類の歴史始まって以来の原子爆弾の投下により損害を被った国民に、心から同情の念を抱かない者はないだろう。戦争をまったく廃止するか、少なくとも最小限に制限することは人類共通の希望で、そのためにわれわれ人類は努力を重ねている。
国家は自らの権限と責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、障害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害が甚大で、被告が10分な救済策を執るべきことは多言を要しない。
しかし、それは裁判所の職責ではなく、立法府の国会と行政府の内閣において果たさなければならない職務である。そういう手続きによってこそ、原爆被害者全般に対する救済策を講じることができる。そこに立法と立法に基づく行政の存在理由がある。終戦後十数年を経て、我が国が国家財政上これが不可能とは考えられない。
われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおれない。原告等の請求を却下する。
この判決の日、三淵さんは法廷にいなかった。その年の3月に結審を終え、4月に東京家庭裁判所に異動になった。判決から60年以上を経たいま、政治の貧困はさらに進んでいるように思えてならない。
(章)
そのほかの過去の記事はこちらで見られます。