いわきクロニクル

いわきクロニクル

 はじめに

 「chronicle」(クロニクル)という言葉が好きだ。初めてその言葉に接したとき、どこの民族のものなのか見当がつかない語感に不思議な魅力を感じ、気にするようになった。調べてみると「chronicle」は意外にも英語で、年代記とか物語という意味だった。そのころからだろうか。「自分が生きている時代を刻印する、という意味で、いつか自分が書くもののタイトルに使いたい」と思い始めている自分がいた。
 ここで紹介する文章の数々は、2001年6月5日から2002年6月21日まで、13回にわたって知人たち30人に送り続けたメールマガジン「いわきクロニクル」から抜粋した。
 この時期は、思ってもみなかった人事異動が発令され、営業担当をしていたころだ。心の奥底に棘が刺さったような痛みを感じながらも、淡々と過ぎて行く時間。何も手がつかない状態の中で、「何かを書かなければ自分がだめになってしまう」と思い、自分と心配してくれている仲間たちのために書いた。
 記者という仕事を離れて8カ月。勘を取り戻すのは大変だったが、自分が書きたいこと、感じたことをただ、書いた。はじめのうちは、それが自分を活性化する唯一の道だと信じていたこともあり、気持ちに張りがあった。ところが、何ヶ月かたつと続ける苦しみが襲いかかり、試行錯誤と葛藤の連続となった。しかし、営業という慣れない仕事をしながら文章を書き続けた経験は、自分の中に小さいが強い灯を点し、『日々の新聞』創刊につながったと思っている。

2003年1月 安竜昌弘

 写真について

 このコーナーのモノクロ写 真は、長年にわたってコンビを組んできた高萩純一カメラマンのものだ。「まちかど紳士録」「路地を歩く」「上三坂の四季」「肖像のぺいじ」「いわき旬紀行」…。まるで弥次喜多のようにまちを二人でさまよい、人々の暮らしや、その後ろにある人生などを切り取ってきた。
 へらず口をたたきながらの取材は楽しいが、背筋をピンと伸ばされることも多い。話を聞いているうちに、一人の人生のはかりしれない重さをつきつけられ、自分のシンのない、ぐにゃぐにゃした人生が浮き彫りにされるからだ。そんな時、ふと横を見ると、「純ちゃん」の目も哀愁を帯びていたりする。
 今回選んだ写真を1枚1枚じっくりながめてみると、いわきに住む人々の淡々とした生き様が、じわっと伝わってくる。それは高萩純一の持つ温かさと、市井の人たちの飾りのない日々との協奏曲なのだろう。「さまざまな思いをシンプルに表現する」。それが純ちゃんのカメラアイだと思う。


案山子の眼

 別れの曲

 大黒屋社長の馬目佳彦さんが話してくれた磐城高校時代のエピソードだ。当時の音楽の先生は若松紀志子さんだった。最後の授業で「別 れ」をテーマにクラシック音楽を3曲かけた。その中には、ショパンの「別 れの曲」も入っていたが、「ショパンがいい」という生徒は少なかった。そこで紀志子さんは言う。「あなたたちは『別 れの曲』の良さを、まだわかっていない」
多感な高校生時代のことだ。馬目さんにとってよほど印象深かったのだろう。ことあるごとにその話をした。その後、馬目さんは「第9を歌う会」などの中心的役割を担い、小林研一郎などを支援していく。市民の立場でこれほど明快に音楽を愛し、応援した人は記憶にない。

 「大黒屋破産」のニュースが駆けめぐったとき、真っ先に頭をよぎったのが馬目さんのことだった。商工会議所会頭として忙殺されながらも、正論を吐き続け決して人を逸らさなかった。交流のあった人たちの会合には欠かさず顔を出し、あいさつをした。ただ、このところ、体のシンからわきあがってくるような迫力が顔を潜め、全体的に小さくなったような気がしてはいた。

 「市民と共に歩む大黒屋」。馬目さんはそのキャッチフレーズ同様に、まちづくりのために奔走した。それは「まちが良くなれば企業も良くなる」との一念だったという。しかし現実的には、荒涼としたいわきに「にぎわい」という花の種を必死になってまき続けていたのは、馬目さんだけだった、という感じがしないでもない。
 「冷めてるいわき」を自らの情熱で変えようとした馬目さん。しかし、刀は折れ、矢は尽きた。しかも、その周りには大黒屋の倒産を冷ややかな目で見つめる人たちがいる。決して先頭には立たず、表にも声を発せず、陰口をたたく輩がいる。その行為こそが、突出しようとする力を抑え、平均化する力を助長させている。しかもそこにあるのは、眼光鋭い正論ではなく、上目づかいの沈黙だけなのだ。
 個性や競り合いがなくて、レベルを上げることなどできやしない。地域間競争に勝ち残れるユニークなまちなどできるはずがない。だからこそ、いわきには稀有な、このリーダーを地域が支える必要があった。この穴は、とてつもなく大きい。時がたてばたつほど、実感として迫ってくるに違いない。

 酸いも甘いもかみしめた馬目さんは今、ショパンの「別れの曲」をどんな思いで聴くのだろうか。

2001年6月5日

 借り物

 その女性は自分を「映画作家」と呼んだ。面識があるわけではない。テレビで見ただけなのだが、その生き方や考え方に引き込まれた。河瀬直美さん。30歳。NHKテレビ「テントでセッション」に、歌手の加藤登紀子さんが招いた。そして、加藤さんは招いた理由をこう説明した。
 「私たちの世代は、それまで築いてきたものを壊し続けた。政治って何?、なぜ歌うの?、それをしなければならないのはどうして?―そう問いかけ、既成のものをメチャメチャにした。でも、この子がつくる映画は、私たちがメチャメチャにしたものの中から大事なものを拾い集め、結晶にしたような美しさがあった」

 河瀬さんは幼いころに両親が離婚し、遠縁の夫婦の手で育てられた。映画作家としてのデビューは行方不明の父を捜すドキュメンタリー映画「につつまれて」。いわば個人的ともいえる「父親捜し」という行為を、自らの感性で 映像化し、台詞の少ない独特の手法が注目される。「映画作家・河瀬直美」のスタートだった。「あんたは余計なこと言わんでいい。映画で語ればいいんやないの」―友だちの言葉だという。しかし、彼女は問われるままに、自分のことを話し始めた。開けっぴろげに、悪びれることなく、堂々と…。そこには、甲冑など着けず、手にも何も持たないで、ただ裸の自分だけで勝負している一人の人間がいた。
 「プロデューサーがだんなさんだったのよね」「はい、元夫です。私って映画をつくっている自分と夫婦でいる自分の使い分けができないんですわ」。彼女は、ごく自然に、こう答えた。
 河瀬さんは、さらに言う。
 「あるシーンを撮影しますよね。すると撮ってて『こりゃ、借り物だな』って思ってしまうんですよ。そこでストップし、自分のシーンを模索します」
 この言葉の意味は重い。テリー伊藤さんは「現代の日本は二番手文化」と言っているが、事実、「亜流」が当然の顔をして社会を席巻している。「みんなと同 じ」という妙な安心感が、オリジナルなものを異端視して潰している。その結果、群れないと不安、とでもいうような均一化現象を生み、社会が病んでいる。ふと、自分を冷静に見てみると、借り物の甲冑を着け、みんなと同じ武器を持って社会に媚びている姿が、鏡に映っていたりする。これは由々しきことだろう。
 河瀬さんは、自分が裸になっても、ありのままの自分なのか疑念を持つ。自らの表現を追求するために、皮膚や肉を突き破り、骨や心臓まで明らかにしようとする。それは、凄絶な作業のはずなのだが、本人の周りには、なぜかさわやかな風が吹いている。その、さりげなさ、が何とも眩しい。

2001年6月11日

 地域紙

 このコラムのタイトル「案山子(かかし)の眼」は、地域というか地方にじっとして動かない人間から見た社会観のようなものが書ければ、と思ってつけた。言ってみれば「定点観測的思想」だろうか。
 「時が過ぎるのではない」「人が過ぎるのだ」―田村隆一の「Fall」という詩の一節だ。いわきというフィールドで記者活動をし、さまざまな出会いを繰り返すたびに、このフレーズが何回浮かんでは消えたことだろう。そして別 れの宴では、去っていく人たちに「いわきを書く」という思いを託され続けてきたように思う。

 今回、「地域紙のアイデンティティー」をテーマにしようと思ったのは、一連の大黒屋報道を読んだからだ。地元紙と呼ばれる福島民報、福島民友、いわき民報の記事はいずれも現象面 に終始していて検証がなく、読者が知りたい情報を十分に伝えてはいなかった。
 「馬目さんは、なぜ自己破産を決意したのか」「市民は大黒屋がなくなって本当にいいのか」「大黒屋はどう責任をとるべきなのか」…。そんな思いが次から次と湧いてくるのに、地域にこだわることを標榜している各紙の、どこを読んでも通 り一遍の記事ばかりで、心の中の欲求不満が日に日に大きくなっていった。

 地域紙の記者は、そこにとどまり続け、地域とともに生きていく。まちの悲しみも喜びも苦しみも、自分のこととして一緒に背負っていく。だからこそ、自分のまちに愛着を持ち、時には、深くかかわり過ぎて書けないジレンマと闘うことになる。
 しかしそれを振り切るのは、「何が地域のためなのか」という使命感であり、裏も表も知ったうえでの真の温かさ、だと思うのだ。

 大黒屋は創業百年目に自らの手で幕を下ろした。商業面での「いわきのシンボル」ともいえる老舗デパートの消滅は、「いわきの崩壊」をも意味するビックニュースのはずだった。しかし地域紙は、自己破産の問題点や今後の道標を示せなかったばかりか大黒屋や市民の思いさえも代弁することができなかった。
 そして何より悲しかったのは、ほとんどの記者が目先にこだわるあまり、自分の記事に何が欠落していたか気がつかないことだった。

 朝日新聞の本多勝一は書いている。
 「問題意識を支えるものの根底は、記者の広い意味でのイデオロギーではないか。全く無色の記者の目には、無意味な事実しか見えず、テープレコーダーと同じような無意味なルポができることになる」
 「地域紙の記者は、地域に根ざした太くて強いイデオロギーを持つべきだ」―今、空虚感に包まれながらも、それを強く感じる。

2001年6月17日

 マイ・ラスト・ソング

 昨年の暮れ、従姉が亡くなった。57歳だった。乳癌の末期で、気がついたときには癌が全身に転移していて、手のつけられない状態だった。肝臓への転移がそうさせたのか、死の床に横たわる従姉の顔は、エジプトの土のような色をしていた。

 「『yesterday』って知ってる」。中学生のころだろうか。大学を卒業したばかりの従姉に尋ねられたことがある。ビートルズの曲のことだとは思ったが、あまりに唐突だったので、「うん」と言うのが精いっぱいだった。会話はそこで止まり、従姉が何を言おうとしていたのかは永遠の謎となった。
 通夜、葬儀と進み、明るく前向きに生きた従姉の思い出が涙とともに語られた。そのたびに、十歳年上の従姉とのやりとりがフラッシュバックのように浮かんでは消えた。そして、納骨のためにバスに乗り込もうとしたとき、セリーヌ・ディオンの「タイタニックのテーマ」が会場いっぱいに響き渡り、お別 れのクラクションが、悲しみに沈む心を切なく締め付けた。

 久世光彦に『マイ・ラスト・ソング』という本がある。「自分は末期の床で何を聴きたがるのだろう」という発想から生まれた。そして、それを読みながら思った。
 「従姉のラストソングはyesterdayだったんだろうか」
 中之作という小さな海辺の町の裕福な家に生まれ、高校、大学時代を東京で過ごした。周りに勧められるままに見合いをし、平凡な結婚をした。表面 的にはそんな淡々とした人生を送った従姉だったが、その心の奥底にあったもの、それは何だったのか―。
 あの、流麗でちょっぴり悲しい「yesterday」のメロディが流れると、そんな思いが、印象深かった従姉の眼差しとともに体中に染みわたる。

2001年6月27日


取材ノートから

「画家の死」

 平成7年11月12日、その日は秋の日差しが眩しいほどに降り注いでいた。その会場には、カザルスの「鳥の歌」が響きわたっていた。2分弱の短い曲が何回も何回も繰り返し流され、カザルスのチェロが一人の画家の人生を格調高く輝かせていた。
 若松光一郎、享年81歳。シンプルでさりげない 告別式だった。

 若松さんは作品そのものが人格だった。和紙の裏にカゼインカラーという独特の絵の具を塗り、張り付けていく抽象のコラージュ。そこには、人間や自然を超越し、宇宙の広がりを感じさせる大きさがあった。何ともいえない品のようなものが漂い、音楽が聞こえてくるような作品ばかりだった。「お城山」と呼ばれる旧城跡の自宅から歩いて平の市街地に下りてくる若松さんを何回か見かけたことがある。白髪に哲学者のような目。夏はTシャツやボタンダウンのシャツにコットンパンツ、冬はクールネックのセーターにコーデュロイのパンツ…。その姿と遭遇するたびに、いわきという南東北の地方都市でただひたすら絵を描き続けてきた「若松光一郎」という画家の生涯を追いかけたい、という思いが強くなり、「いつ活字になるかはわかりませんが、話を伺わせていただけませんか」と、電話することになる。若松家通いが始まった。亡くなる1年半ほど前だったと思う。

 若松さんはごまかしを嫌った、さらに金に縛られることも、世の中に存在する権威や階級も認めようとしなかった。相手を丸裸にし、あくまで人間として付き合おうとした。嫌になるとピシャッと扉を閉ざし、会おうとしなかった。自分のお気に入りを限りなく愛する自由人だった。
 取材は正直言って大変だった。音楽の話になると多弁になるのだが、肝心の絵の話になると口が重くなる。ノートはなかなか埋まらなかった。しかし訥弁の中に、目を見張るような珠玉の言葉があった。「街はすべてが灰色だった」。原爆が落とされた直後、広島の爆心地へ行った時の印象を、若松さんはそう語った。そうひとこと言ったきり、「思い出したくないんだ」と、口を固く閉ざした。その時、若松さんの底流に深く流れている「反戦思想」のようなものを見たような気がした。決して「平和」とか「反戦」などと、声を大にして叫ばなかったが、あの目の奥に深い悲しみと怒りがあることを知った。

 ある日、若松さんがポツンとつぶやいた。「葬式の祭壇とか花輪ねぇ。あれ、なんとかならないのかな。僕が死んだときはくされ坊主のお経なんかじゃなくて『鳥の歌』で送ってほしいな」。 
 平成7年。その年の夏は暑かった。居間のソファに座り、呼吸を苦しそうにしている夫の姿を見た紀志子さんが無理に病院に行かせると、片肺が真っ白の状態で、すぐ入院となった。9月27日のことだ。その後、安定した状態が続いていたが、ほぼ1カ月後の11月7日朝、若松さんは眠るように息を引き取った。それこそ燃え尽きるような最期だった。
 前の日の夜、8時ぐらいまでテレビを見ていた若松さんは、朝、水を欲しがった。午前6時ごろのことだ。ゆっくりと水を飲んだあと、付き添いの女性がふと若松さんを見てみると、亡くなっていることに気づいた。まさに大往生と言えた。
 通夜と告別式。会場にカザルスの「鳥の歌」が流れた。若松さんが亡くなった翌日、紀志子さんを訪ね、「鳥の歌で送ってほしい」と話していたことを伝えた。紀志子さんは「ああ、そうなの」と頷き、若松光一郎らしい葬儀を行うことを決めた。壇上には純白の大きなパネルが張り付けられ、遺影と遺骨と作品、さらに画家活動のベースにしてきた新制作協会の旗と白い生花のアレンジメントがあるだけ。実に清楚で精神性の高い告別式だった。

 カザルスは音楽を通して戦争の愚かさを訴え続けたスペインのチェリストだった。その象徴とも言えるのがカタロニア民謡をもとにした「鳥の歌」で、平和を願い国連でも演奏されたことがある。若松さんは自らの死に、少し照れながらも意味を込めたかったのだろう。自らの生きざまを作品の中にじわっと込める若松さんらしいこだわり、と言えた。

 若松さんを思い出すと、必ず市立美術館に収蔵されている代表作「大地の歌」を見に出かける。その3枚組の大作コラージュには見るものを壮大な自然や悠久の時に誘う魂のようなものがあり、人生の奇跡まで深化させてくれる力がある。コントラバスの重低音が聞こえるような存在感が見る側を圧倒すると同時に品が良く、心のもやもやを吹き飛ばしてくれるような爽快感がある。そして、永遠の波動を放ち続けている。「大地の歌」は若松さんの人生そのものなのだと思う。

2001年9月