1.プロローグ
昨年の春だった。常磐音楽舞踊学院教授で、エミ・バレエスクールなどを主宰している小野恵美子さん(64)は、朝日新聞の取材を受けた。福島県版の「あの人に伝えたい」という欄の取材で、踊りのこころを教えてくれた舞踊家の香取希代子さんへの思いを語った。
その2年前、常磐ハワイアンセンターを舞台にした映画「フラガール」が全国の映画館で上映され、松雪泰子が演じたまどか先生のモデルのカレイナニ早川さんと、蒼井優の紀美子のモデルだった恵美子さんの師弟関係が脚光を浴びた。
しかし、恵美子さんたち常磐音楽舞踊学院一期生にはもう1人、大切に思う踊りの先生がいた。それが香取さんだった。恵美子さんにとって、ダンサーとしての育ての親が早川さんなら、香取さんは生みの親。いつからか、もう1人のまどか先生の存在も伝えたい、と思うようになった。
「わたしと教え子たちで来春、創作フラメンコを上演します。もう一人の『フラ(メンコ)ガール』がテーマで、香取先生が主人公です。先生役はわたし。あの独特の抑揚のある話し方も、せりふに入れます。よく似ていると思っています」
恵美子さんは胸に秘めていたことを、朝日新聞の記者に明言した。来春とは、自身の舞踊45周年の記念公演を意味する。恵美子さんは自分で自分の背中を押した。
香取さんはいわき生まれ、育ち。父親は入山採炭の建築技師で、のちに常磐ハワイアンセンターの社長になった中村豊さんが入山採炭に入社した時には、すでに管理職だったという。そのころ磐城高等女学校の生徒だった香取さんは、中村さんにかわいがられた。
幼いころから踊りが大好きで、小学生の時には父親の集まりの会でボール紙の鎧兜を着て踊り、評判になった。磐城高女時代は「体操とダンスが得意」と周りから言われた。卒業目前のある日、母親の婦人雑誌をめくっていて、留学を終えて帰国した舞踊家の高田せい子さんの記事を読み、踊りの虜になった。
進学を理由に東京に出て、初めは和洋専門学校に通いながら、そこを卒業すると文化服装学院で学びながら、家族には秘密にして舞踊研究所に通った。学院の卒業間近に、両親に踊りのことがばれて、いわきに連れ戻された。
それでも、諦めない。香取さんは風呂敷包みを一つ抱え、家出した。そして、松竹少女楽劇部(のちのSKD)に入り、バレエ、ジャズ、モダン、タップ、日本舞踊、世界の民族舞踊などを踊った。しかし、思いはスペイン舞踊にあった。
26歳でダンサーの横山公一さんと結婚。ちょうど日中戦争が始まった年で、2年後には第二次世界大戦が起こり、香取さんは終戦まで夫婦で戦地を慰問して回った。終戦後は米軍キャンプを慰問し、そこで知り合った将校が『ダンス・オブ・スペイン』という四冊組みの本を取り寄せてくれた。本場のフラメンコの舞台が日本で初めて行われる十年も前だった。
終戦から2年後、香取さん夫妻は東京都中野区野方に舞踊スタジオを開設。昭和37年にはスペイン政府の招聘でスペインに1年間留学した。7年後、さらに半年留学した。その後もスペインには10回以上行っている。フラメンコの日本の第一人者の1人で、日本フラメンコ協会の名誉会長をしている。
香取さんはいま、97歳。東京の自宅で娘さんの世話を受けながら、寝たきりの生活を送っている。3、4年前までは意識がはっきりしていて、話をすることもできた。しかし昨年の初夏、恵美子さんが45周年記念公演の創作フラメンコの説明と了承を得るために訪ねた時は、意識が朦朧としている感じで、言葉を交わすことはできなかった。
動くという喜びのなかに自分を見出し、言葉でなく体で表すことで自己表現してきた香取さん。自らの著書『85歳、しなやかにフラメンコ』(パセオ刊)で「なぜ踊るのか、ということがわからないと、本当の踊りはできないはず。ただ動くのでなく、心のうちに持っているものが出てきて初めて、人様を惹きつけ、人様に何かを与えることができるのではないかと思う」と言っている。
恵美子さんの舞踊45周年を記念した公演「常磐ハワイアンセンター物語[フラメンコ編]」が4月4日、アリオス大ホールで開かれる。恵美子さんの子どものころや常磐ハワイアンセンターのオープンの前などにタイムスリップしながら、本番までを追う。 |
2.出会い
小野恵美子さんは炭鉱景気に沸く、内郷宮町の炭砿住宅で育った。父の佐市さんは常磐炭砿の労務、人事担当の社員だった。多趣味で遊び心があり、人生を楽しむ達人。恵美子さんはその父に似たのだろう。小さな子どものころから踊ることが大好きで、音楽が聞こえてくると、リズムに合わせて自然に体が動いた。
小学2年生の時、内郷と湯本にバレエ教室ができた。当時、常磐炭砿の常務だった中村豊さんが「地域の子どもたちの情操教育のために」と考え、中村さんの部下だった佐市さんが準備にかかわった。バレエの先生は、中村さんを「おじさま」と慕い、東京で舞踊スタジオを開いていた香取希代子さん。恵美子さんは5歳下の妹の富美子さんとバレエを習い始めた。
バレエ教室を開く12年ほど前の、第二次大戦中、夫とともに戦地慰問をしていた香取さんは、広東で懐かしい言葉を聞いた。聞けば、その隊員はいわき出身だという。それに近くの部隊には、常磐炭砿の社宅で暮らしていた人もいるらしかった。
香取さんはとにかく会ってみたくて、その部隊を訪ねた。兵舎の2階から降りてきた男性は、南支派遣軍の将校として駐留していた中村のおじさまだった。驚いた顔をして香取さんの顔を見つめる中村さん。胸がいっぱいの香取さんは「おじさま」と言ったきり言葉が出ず、ぽろぽろ涙を流した。異国の地で、思いがけない再会だった。
香取さんが踊りの道を志してから、中村さんはずっと陰になり日向になり応援してきた。終戦から2年後、東京で舞踊スタジオを開いた香取さんにバレエ教室の先生を依頼したのも「なかなかお金が大変だろうから、足しになれば」という、中村さんの思いからだった。
子どもの恵美子さんから見た香取さんは髪が茶色く、背筋がピンと伸び、身のこなしが洗練された女性だった。言葉もまるで外国語を話しているようで、異国の雰囲気があった。「本当に日本人なのかしら?」と、恵美子さんは思った。
もともと香取さんの髪は赤くてウェーブがかかっていた。目は茶色、肌は透きとおるように白かった。そのせいで子どものころはいじめられ、通 学の際はいじめっ子たちに会わないように時間をずらした。女学校時代も髪のことで母親が学校に呼び出され、上級生にも「お父さん、お母さんはどちらの人?」と尋ねられた。
教室のレッスンは週に一度。恵美子さんたちはレオタードにタイツ、バレエシューズを履いてバレエの基礎を学び、かわいらしい音楽に合わせて踊った。どんな音楽でも、恵美子さんの体はすーっと合わせられた。音楽が流れると、何か踊らなくちゃいけないという気持ちになった。
中学生になって、恵美子さんはあこがれのトーシューズを初めて履いた。うれしかったが、思うように動けず、美しさの陰の努力、大変さを感じた。ちょうど学校も忙しくなり、疲れてレッスンを休むこともあった。しかし、やめてしまいたいと思うことはなかった。「香取先生のようになりたい」という気持ちと、踊りの世界へのあこがれが頑張らせた。
香取さんの踊りは素敵だった。バレエもフラメンコもシャンソンに合わせた踊りも、それに夫の横山公一さんとのデュエットで、横山さんの肩にのったり、股間をさっとくぐり抜けたりする動きは魔法のように見えた。ハイカラでかっこよかった。
高校生になった恵美子さんはダンスクラブに入部し、毎日、放課後の練習が待ち遠しかった。クラブとバレエ教室を両立させ、高校卒業まで10年ほど、香取さんからバレエを学んだ。踊りのこころの種が香取さんから恵美子さんに播かれた。
3.スタートライン
「東京に出て、香取先生のもとで本格的に踊りを学びたい」。
昭和36年、ダンスクラブの締めくくりの県高校総体を終え、恵美子さんは卒業後の進路を考えていた。踊りを続けるにはどうしたらいいか。それが目下の悩みだった。香取先生の内弟子も考えたが、先生の自宅に弟子が寝泊まりできるスペースはなく、難しかった。
東京で就職する、そして踊りのレッスンを続ける。浮かんだのは常磐炭砿本社だった。幼いころから父に連れられ、行き慣れていた炭砿事務所を訪ね「わたしでも常磐炭砿の本社に勤められないかしら」と、総務の人に相談した。
本社の女性社員はほとんどが東京での採用だったが「たまにはヤマの人もいいか」と就職話は進み、入社試験を受けることになった。そして合格、次は住む家探しだった。ところが、ちょうど父の武市さんに、常磐炭砿が小金井市に持っていた学生寮の舎監への異動があり、家族全員で東京に移り住むことになった。
すべて、副社長の中村豊さんのはからいだった。
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石炭から石油へのエネルギー革命で、常磐炭砿もかげりが見え始め、新事業を模索していた。恵美子さんが東京本社で働き始めた昭和37年の暮れには2000人の人員整理案が示され、常磐炭砿女子野球団「コールシスターズ」も解団した。
そんな時代に中村さんが思いついたのは、坑内から湧き出る温泉を利用したレジャーランド構想だった。アメリカでレジャー施設を視察した帰り、中村さんはハワイに立ち寄った。飛行機から一歩出た瞬間の暖かな心地よさ、素朴で情熱的なトエレ(打楽器)の音は日本の祭太鼓の音と重なった。
「日本のハワイをつくって、フラダンスやポリネシアンダンスを見せよう」。中村さんの頭に浮かんだ。温泉を利用した巨大な温室に熱帯植物を植え、温泉プールを造り、ショーを上演する。具体的なイメージができあがった。
その日本のハワイで働く人たちは、もちろん炭砿の社員と家族たち。それでこそ、一山一家の炭砿精神が受け継がれる。中村さんは香取さんにダンスを踊る娘たちの教育を相談した。「やるなら学校をつくってほしい。基礎からちゃんと教えたい」。香取さんは言った。
ダンスを踊る娘たちの募集が始まった。対象は内郷市と常磐市の中学卒業生。炭砿の世話人たちは年頃の娘のいる家を回って勧誘したが、昭和39年の半ばになっても、定員の半分に満たなかった。
その状況に「地元にこだわらず、東京で募集し、東京で教育したほうがいい」と、アドバイスする人もいた。しかし中村さんは「常磐炭砿の精神が生きている芸能を目的とする。それは炭砿人の血を受け継ぎ、炭砿の空気で育ってきた人が踊ることで達せられる」と考えを曲げなかった。
ただ、娘たちの募集は福島県全域にまで範囲を拡大した。
その年の東京本社での忘年会だった。余興をする人がいないため、恵美子さんが華やかな衣装を借りて、ラテン系の踊りを披露した。それを中村さんが見ていた。「あの子、いいんじゃないか」。間もなく、恵美子さんは人事課に呼ばれた。
「だれか結婚を約束した人はいるの?」などと尋ねられ「常磐ハワイアンセンターでダンスを踊ってほしい。香取先生も恵美ちゃんを薦めている」と言われた。
東京でのOL生活は楽しかった。香取先生のレッスンに通ってはいたが、日々の遊びの方が忙しかった。このまま普通 に事務の仕事を続けていくか、それとも好きな踊りで少し彩りのある人生を歩んでみるか。「やってみないとわからない」。2、3年ぐらいなら、と軽い気持ちで決めた。
当時、ハワイアンブームだった。会社の近くにもハワイアンバンド演奏の店があり、仕事の帰りに寄っていた。でも自分がハワイアンダンスを踊るなんて、それまで夢にも思わなかった。
翌年4月、常磐市上浅貝の保養所に全寮制の常磐音楽舞踊学院が開校した。目の前にズリ山がそびえていた。一期生は18人。平均年齢17歳で、ほとんどが踊りの経験のない娘たちだった。
開校式で、学院長でもあった中村さんは「ハワイアンセンターの将来は、学院のみなさんの努力にかかっているとも言えます。常磐の宝塚を築き上げる心意気で訓練に励んでください」とあいさつした。
恵美子さんは踊り人生のスタートラインに立った。
4.レッスン
恵美子さんたち一期生の常磐音楽舞踊学院での生活が始まった。寮で暮らしながら、日曜日を除いて毎日午前9時から午後5時まで、踊りのレッスンのほか、歴史や英会話、舞踊史、お茶、お花なども学んだ。門限は午後9時、ほとんど踊り漬けの日々だった。
常磐音楽舞踊学院にはモデルがあった。常磐炭砿女子野球団「コールシスターズ」。昭和31年に結成され、選手たちは東京都世田谷区祖師谷の女子寮で共に暮らし、午前中はお花や和裁、音楽、バレエなど教養講座を受け、午後はグラウンドで野球の練習をした。
野球団の選手も、音楽舞踊学院の一期生も十代半ばの女の子がほとんど。本分の野球や踊りの上達だけでなく、教養や礼儀も身につけた。
中村豊さんが香取希代子さんにダンスを踊る娘たちの教育を相談した時、フラダンスとタヒチアンダンスの指導も頼んでみた。しかし断られ、中村さんは指導者探しに苦慮した。当時、ハワイアンバンドの演奏は盛んにされていたが、踊りの指導者はほとんどいなかった。
あきらめて現地人教師を招く準備を始めた昭和39年夏、NHKの番組「私の秘密」で「日本人で初めてのフラダンスの先生」と、二人の女性が紹介された。ティーナ早川さんとレファナニ佐竹さん。番組を見ていた中村さんは、2人を何とか教師に招きたいと思った。
それから間もないある日、中村さんの自宅の窓ガラスを割って、ボールが飛び込んできた。謝りに来た隣家の男性はNHKの職員だった。「ボールのことは気にしないで。それより先日のテレビに出演した二人の女性を紹介してください」とお願いし、2人を学院の教師に招くことができた。
フラダンス、タヒチアンダンスの指導を担当した早川さんは子どものころからクラシックバレエを習い、24歳の時に訪れたハワイでフラダンスと出合い、数年後、ハワイに留学して本場のフラダンス、タヒチアンダンスを学んだ。
フラダンスのフラは「踊り」の意味。手話ダンスで話をするように、やさしく踊る。庶民的な踊りで技術的に難しくないが、だからこそ美しくしなやかに踊るのは難しい。ポリネシアンダンスは腰に重心を置いた激しく、情熱的な踊り。教師の父を持つ早川さんはレッスンだけでなく、礼儀にも厳しかった。
一方、フラメンコは魂とリズムの踊り。虐げられたジプシーの踊りでもあり、喜び、悲しみ、苦しみを生活のなかからそのまま舞踊芸術にした。踊り手の思いを個性的に表現し、情熱を内に秘めながら一瞬、パッとひらめかす。
フラメンコを指導した香取さんは「こころが大切なのよ」が口癖だった。踊りに気持ちを込め、芸術の域にまで持っていく。それには自分自身の精神性も高めなければならない。敵をつくらず、敵を持たず、敵とも思わない。そんな大人の女性の振る舞いも、自身の姿で示した。
一期生のなかで一番年上で、踊りの経験もある恵美子さんは先生たちの助手役で、一期生と先生たちの橋渡し役でもあった。レッスンは基礎のクラシックバレエを終えると、民族舞踊に入った。「バレエはできるかもしれないけれど、フラダンスは同じだもの」。恵美子さんはほかの一期生たちにそう言われた。スタートラインが同じだから、みんなの競争心が強かった。
午前4時、カタカタカタカタという音で、恵美子さんは目が覚めた。床に毛布を敷いて、音が出ないようにしながらフラメンコの練習をしている姿があった。寝静まった夜、復習に汗を流す人もいた。みんな隠れて黙々と練習し、何もなかったように涼しい顔をした。それだけ、懸命だった。
恵美子さんが橋渡し役として心がけたことが2つある。だれよりも早く、踊りをマスターすることと、引っ張っていく力を持つためにできない人の手助けをすること。先生たちには「上に立つ人は孤独になりなさい」と言われた。毎日、レッスン場でも寮でも同じ顔ぶれで、みんないらいらしていた。恵美子さんはこころから話せる人が欲しかった。
5.踊りの神髄
常磐音楽舞踊学院での日々は瞬く間に過ぎていった。一期生たちは夏にマスターした3曲の踊りを海岸や夏祭りで披露した。秋には東京、あちこちにある常磐炭砿の会館などで踊り、舞台度胸をつけていった。締めくくりは12月初め、東京・大手町のサンケイホール。昼夜2回の公演は2千人の客席がたちまち満員になり、補助椅子を出すほどだった。
そして昭和41年1月15日、常磐ハワイアンセンターがオープンした。恵美子さんはステージのそでからこわごわ、観客席を覗いてみた。隣の大プールにこぼれ落ちそうなほど大勢のお客さんがステージ前に集まり、人の波がうねっていた。恵美子さんは体中の熱が一度に上がったような気持ちになった。
ステージでの初めての踊りはあまり覚えていない。一期生18人、1人も欠けることなくステージに立てた。踊りを見る真剣な眼差し、涙を流して見ている人の姿などは、いまも鮮明に思い出される。翌日から、恵美子さんたちはさらに忙しく日々を過ごした。お客さんが集まると踊りのショーをするやり方だったから、1日中ステージに縛られた。
忙しいながら充実した毎日だったが、慣れてくると徐々に恵美子さんは、漠然とした苛立ちを感じるようになっていた。日本舞踊などと違い、フラダンスやフラメンコはレパートリーが限られているように思えた。毎日毎日、同じ場所で踊り続けている自分に「なにこれは、ただ足踏みをしているだけじゃない」などと自問自答した。
「あのショーはまねにすぎない。本物じゃない」の酷評は腹立たしく、しかしとても気になった。見ているお客さんの心に届き、踊っている自分の心にも通じるような踊りを踊りたいという思いが、恵美子さんのなかで少しずつ大きくなっていった。
オープンから1年半後、恵美子さんはカレイナニ早川(早川和子)さんとハワイ、タヒチを訪ねた。タヒチの娘たちの踊りを見ながら自分の体を動かし、動きの本質を体得しようとしたが、娘たちのように自由自在な感じは出せなかった。踊りを見て理屈でわかったことが、体で表現できない。恵美子さんは夢中で娘たちの動きに合わせて踊り続けた。
そのうち疲れてきて体の力が少し抜けたようになると、すっと全身が軽くなり、イメージ通りに動けた。瞬間、恵美子さんは自分の体を使って表現する、踊り芸術の本質にふれた。わが身を使って何度も試み、体から体への技術・文化の伝わり方があることを体験し、タヒチアンダンスは体を使った「もう1つの言葉」で語りかけることを実感した。
帰国後、恵美子さんは早川さんと香取さんとステージの進め方を何度も話し合い、仲間や後輩に現地で学んだことを伝えた。しかし恵美子さんの目標はもうその先にあった。ステージと観客の一体感、踊りを介して観客と気持ちを通じ合いたかった。
「裸踊り」なんて言われることもあったが、恵美子さんはその国の踊りを踊らせてもらっている、という思いがあった。世界にはさまざまな踊りがあり、その国の人々が踊るようにはいかない。しかし、逆に日本人にしかできない踊りがある。
もちろん、外国人の大胆な踊りもすてきだ。しかし外国人と同じにはいかないし、同じにはしない。日本人は勉強家で、手、指の美しさがある。しなやかできめ細かく、内面をも表現する踊りが日本人の踊り。
初めてのハワイから約20年後、恵美子さんはフラメンコの本場・スペインを初めて訪ねた。「これが、私が先生としてあなたにしてやれる最後のレッスンかもね」。香取さんはそう言って、恵美子さんをスペイン旅行に誘った。2人は香取さんが初めてスペインに留学した際に寄宿したモラレス家に世話になり、舞踊スタジオを訪ね、ギター奏者に会った。
香取さんの紹介で、恵美子さんはある夫妻のレッスンを受けた。フラメンコのなかで美しい旋律で知られる「ラ・カーニャ」の振付け指導で、恵美子さんの一生の宝物になった。香取さんは夫妻に「日本でよくここまで育てましたね」と誉められた。
あとで香取さんは恵美子さんに打ち明けた。「恵美ちゃん、とてもうれしかったわ。本当にこれで、肩の荷が下りる思いだわ」と。
6.縁は異なもの
昭和51年3月30日、恵美子さんは常磐ハワイアンセンター娯楽館にあるフラメンコ喫茶「エスパナ」の最後のステージに立った。1曲踊り終えた後、常磐音楽舞踊学院の後輩が言った。
「私たちのリーダーであります豊田恵美子さんが明日、結婚のため引退することになりました。ここで香取先生から花束の贈呈があります。お受け取りくださいませ」
恵美子さんは花束を受け取って香取先生と抱き合い、後輩と2人で再び踊り、腰に巻いたショールをほどいて後輩の首にかけ、ステージのそでに入った。そして、お別れにもう1曲。香取先生と2人、カスタネットを手に踊った。
ハワイアンセンターのオープンから10年が過ぎ、恵美子さんは32歳になっていた。
周りを見回すと、いつの間にか一期生は恵美子さんだけになっていた。ほとんどが結婚を機にステージを去った。そのなかで恵美子さんは助教授の肩書きをつけながら、現役で踊り続けていた。
よく人から理想の男性や結婚について尋ねられた。でも踊りを知れば知るほど、その世界にのめり込んでいった。「踊りへの執念と怨念みたいなものが私のなかに宿っている限り、結婚は遠い存在かもしれない」。そう思っていた。
それでも、どうにか様になってきた後輩たちに「結婚するので辞めます」などとあっさり言われると、一瞬がく然として素直に「おめでとう」の言葉が出なかった。「もったいない」という気持ちと、さらりと女の幸せに飛び込めることへの反発と嫉妬が、恵美子さんのこころを締めつけた。
引退する前年の新緑のころだった。恵美子さんは香取さんから食事に誘われた。「従兄弟と食事をするんだけど、だれかダンサーを一緒に招待したいと言うの。恵美ちゃんなら独身で暇でしょう」。香取さんの従兄弟は足が悪く、車の運転をしてきたのが小野英人さんだった。
小野さんは市議選に立候補して落選し、不動産の仕事をしていた。「この人は恵美子さん、踊りをやっているのよ」。香取さんは紹介した。小野さんはハワイアンセンターのステージを見たことがなく、華やかな人だなと思った。そして「ダンサーの人を見るのは初めて」と言った。恵美子さんは穏やかで、のんびりした人だなと思った。
そのころ恵美子さんは一度、立ち止まりたいと考えていた。「いつまでもハワイアンセンターのステージで踊っているわけにはいかない」。結婚を機に生活を変えたかった。3歳年上の小野さんは8月の誕生日までに結婚相手を決める、と自分に課していた。
こうして恵美子さんと小野さんはつきあうようになり、香取さんたちを驚かせた。2人のドライブデートは時々、中断した。小野さんは睡眠時無呼吸症候群で熟睡できず、昼間、眠くなる。車を運転中に眠くなると途中で止め、しばらく仮眠をとった。その間、恵美子さんは助手席でじっと待っているしかなかった。
ある日、小野さんは恵美子さんにプロポーズをした。
2人の結婚が決まった時、香取さんは小野さんに言った。「結婚しても、恵美ちゃんに踊りは続けさせてあげてね。恵美ちゃんのスタジオを出してほしいし、音楽舞踊学院にも助教授として残ってもらいたい」。小野さんは香取さんの願いを承知した。
しかし中村豊さんは「結婚してからは家庭が大事」と、恵美子さんが指導者として音楽舞踊学院に残ることに賛成しなかった。引退して間もない4月4日、結婚式が行われた。披露宴で中村さんは「掌中の玉を取られた思い」と祝辞を述べた。
その年の12月、恵美子さんは平と植田にレッスン場を借りて、「エミ・バレエスクール」を開いた。スクールの名前をつけてくれたのは香取さんだった。
恵美子さんの人生は節目に必ず香取さんの存在がある。バレエを習い始めた時、常磐炭砿の東京本社からいわきに戻った時、常磐音楽舞踊学院、小野さんとの結婚、そしてエミ・バレエスクール。「人生のわかれ道、曲がり角にくると、いつも香取先生が手を引いてくれる」。恵美子さんは言う。
7.祈り
2009年のお正月、恵美子さんは自宅近くの神社に初詣に出かけ、「公演が無事、うまくいきますように」と祈った。頭は常に、4月の舞踊ひとすじ45周年記念公演のことでいっぱいだった。常磐音楽舞踊学院でのレッスン風景、常磐ハワイアンセンターに訪ねて来たスペイン人のことなど、香取さんとのいろいろな思い出が浮かんでいた。
暮れに初めて、ギタリストの住田政男さんやダンサーの山本将光さん、カンテの川島桂子さんたちと平南白土の稽古場で、大まかに公演の流れを追った。気心が知れたメンバーだが、それぞれがまだ内容をつかみきれず、台本を含めてつくり込みが始められた。すべてはこれからだった。
それなのに、11月末に階段で転んで骨折した恵美子さんの左手首は、まだギブスをしたまま。左手をかばっての右手だけの踊りでは調子が出ず、気持ちだけがあせった。「これでいいのだろうか」と考えるのだが、切羽詰まらないと決まらないのが恵美子流でもあった。
住田さんは20歳の時に10カ月ほどの予定で、スペインへフラメンコギターの武者修行に出かけた。スペインに滞在して5カ月ほどが経ったころ、ギターを持ってマドリードを歩いていて、小柄な日本人女性とすれ違った。
通り過ぎようとした時、女性は住田さんに声をかけた。「ギターを勉強しているの? 知り合いの子供の教室で踊りのギターを弾く人がいないの。ちょっと行ってみない?」。その女性が香取さんだった。
香取さんはスペイン政府の招きで、2度目の留学中だった。いろいろな先生に就いてフラメンコを学ぶとともに、ギターも習っていた。最初の留学後、シギリージャ(フラメンコの曲の1つ)の音のとり方で何人かのギタリストとけんかしたことがあり、自らギターを勉強して納得のいく説明ができるようになりたかった。
それから10年ほど過ぎて、住田さんは仕事でいわきを訪れた際、ステージを見に来ていた恵美子さんと偶然知り合い、恵美子さんが香取さんの弟子であることを知った。その縁で平成2年の恵美子さんの25周年記念公演の「雪女」では作曲と演出も手がけ、津軽三味線とフラメンコギターの共演を試みた。
雪が吹雪く夜、雪女が恋に落ちた村の男役は、住田さんの知人だった山本さんが演じた。山本さんは踊りながら鳥肌が立ち、恵美子さんは黒い涙が一筋、頬をつたった。当時、テレビ局に勤め、カメラマンが撮った恵美子さんの雪女の映像を見た渡辺貴子さんは、素晴らしさに学生時代に少しふれたフラメンコを恵美子さんの元で再開した。
恵美子さんの左手首のギブスは2月初めにとれた。リハビリに通いながら、2月半ばから時間があると自室やだれもいない稽古場で1人、体を動かし始めた。生徒の踊りには振りをつけるが、自分の踊りに振りはつけられない。大ざっぱにイメージをつくり、あとは本番の自分に任せる。
フラメンコはギターと歌、踊りが三位一体になってできる。恵美子さんは気持ちで踊ることを何より大切にしている。ギターの音、歌い手の声があって初めて、自然に気持ちが入って体が動く。そういう踊りを好み、それは恵美子さんでないとできない踊りで、自分流と思っている。
公演の最終盤、恵美子さんはシギリージャを踊った。フラメンコには悲しい曲がたくさんあるが、そのなかでもシギリージャは救いようのない奈落の悲しみの曲。リズムも難しく、恵美子さんにとっては香取先生と結びつく曲でもある。
住田さんのギター、川島さんの歌、恵美子さんの踊りが1つになり、ステージは底知れぬ悲しみの世界に覆われた。そしてラスト、曲は公演の始まりと同じ「夢」に変わり、ギターの音だけが響く静寂の世界に包まれ、恵美子さんは祈りを表現した。
クリスチャンの香取さんはスペインで教会に行くと必ず祈りを捧げた。違和感なくすっとその空間にとけ込み十字をきったという。それぞれの思いが重なり、溶け合ったステージ。そでから見ていた弟子たちの目に涙が溢れた。
後日、香取さんが公演を見ていたら、何とおっしゃったでしょう、と恵美子さんに尋ねた。「『あら、恵美ちゃんまた始まったわね。あなたらしいわね』じゃないかしら」。恵美子さんは笑いながらそう話した。香取さんの物語は一段落したが、まだまだやりたいことがあるという。
(終わり)
番外編
小野恵美子さんの舞踊45周年の記念公演から2カ月半が経ち、そのステージのDVDが完成した。恵美子さんはDVDを持って、6月24日、東京都中野区野方にある香取希代子さんの自宅を訪ねた。
東京へ向かう車中はどしゃぶりだったが、JR高田馬場駅に着いたころには雨はあがっていた。香取さんの家に行く前に、恵美子さんは常磐音楽舞踊学院の同期生だった植木(旧姓・斎藤)恵子さんに久しぶりに会い、高田馬場駅前のビッグボックスで昼食をともにした。
植木さんは2年生を終えて福島女子高を中退し、舞踊学院に入学した。先生からは「卒業してからでも遅くはない」と止められたが、1期生にこだわったという。小学六年生の時に見た夢が忘れられず、ずっと機会を伺っていた。
スポットライトを浴びてステージに立つわたし。その夢と、新聞で見た常磐ハワイアンセンターの踊り子募集の記事が結びついた。寮で暮らしながら踊りを学べるというのも都合がよかった。まず母親に思いを打ちあけて見方につけ、踊り子に応募した。
食事をしながら自然にはなしは昔のことになった。朝五時には目が覚めて、レッスン室で練習したこと。寮生活が楽しかったこと。体格のよかった植木さんはフラメンコで男役、恵美子さんは女役だったこと。はなしは尽きない。
食事を終え、植木さんは西武新宿線の改札まで恵美子さんを見送った。野方駅は高田馬場駅から5つ目にある。ちょうど1年前、記念公演の創作フラメンコの説明と了承を得るため、同じように電車に乗って香取さんを訪ねた。あの時、香取さんは意識がもうろうとしている感じで、言葉も交わせなかった。
香取さんの家は駅から歩いて5分ほどのところにある。1階は舞踊スタジオで「横山・香取舞踊スタジオ」の看板が出ている。螺旋階段を上って2階が住まい。呼び鈴を鳴らすと、娘の啓子さんが「恵美先生、お久しぶりです」と、にこやかに出迎えた。そして玄関を入ってすぐのダイニングキッチンに通 された。
啓子さんは「希代子さんを連れてきますね」と隣の部屋に行き、寝ていた希代子さんを抱いてきて、車いすに座らせた。昼食を取って心地よく寝ていた希代子さんは、車いすに座っても眠くて目をつむったままで、寝息が聞こえそうだった。
恵美子さんはそばに寄って「先生、こんにちは。恵美子です」とあいさつし、香取さんを主人公にした創作フラメンコの記念公演が好評だったこと、DVDができたので見てほしいことなどを話し、香取さんの口調を真似て啓子さんを笑わせた。
香取さんは恵美子さんの訪問をわかっているらしく、足を動かしたり、まぶたを閉じたまま目を動かしたりした。小さくちぎった焼き菓子を啓子さんが口に入れてあげるとむしゃむしゃ食べ、秘蔵っ子との午後のティータイムを楽しんでいるようだった。
香取さんは自身の半生とフラメンコへの思いを綴った著書『85歳、しなやかにフラメンコ』(パセオ刊)を出版した翌年の1997年、脳梗塞で倒れた。徐々に状態は悪化し、デイサービスなどにも数年前まで通 っていたが、それもままならなくなり、いまは寝たきりの生活を送っている。
倒れて以降、啓子さんがずっと介護している。香取さんの表情は穏やかで、肌のつやもよく、大事にされているのがよくわかる。啓子さんも周囲に介護疲れを感じさせない。バレエのレッスンと、週に1度のドライブが気分転換になっているという。
啓子さんが下のスタジオでレッスンをする時はヘルパーさんに来てもらっている。気配でわかるのか、香取さんはヘルパーさんをお客さんと勘違いし、気を遣うらしい。週に1度は入浴サービスを受け、月に1度は主治医が往診に来る。香取さんはいま98歳。「ここまできたら百歳」と啓子さんは笑う。
目はつむったままだが、啓子さんが「ママ、恵美先生にありがとうは」と言うと、香代子さんは「ありがとう」とはっきり言い、思わぬ できごとに恵美子さんも、啓子さんも拍手した。さらに「ママ、また来てくださいって」と言うと、「また来てくださいね」とかすかな声で言った。
香取さんから精一杯のもてなしを受けた恵美子さんは帰り際、「先生、また」と握手して、お別 れのあいさつをした。それまで明るく楽しく話していた恵美子さんだが、目は涙でいっぱいだった。帰り道、手で涙を拭いながら、恵美子さんは何を思っただろう。
きっと、香取さんに教えられたフラメンコをこれからも踊り続けます、と心のなかで誓ったに違いない。