仲間たちの野辺送り

「ダメ軍団の夏」 粘りに粘って8強入り
いつも真田がいたブラウンチップ平店で働く関根
手前には亡き友・真田の写 真が置かれている。

 その電話は突然だった。「サナダが死んだらしいんだけど、連絡先わかる?」。その声は重く沈んでいた。電話の主は、かつて磐城高校野球部の監督をしていた誉田秀隆。「サナダ」とは誉田が監督をしていたころの教え子で、仲間の関根匡と一緒にブラジル産のコーヒー豆を販売している真田寿信のことだ。「真田が死んだ」。そう自分に言い聞かせると、無口で職人気質の真田の姿が浮かんでは消えた。

辞めない部員たち

 真田と初めて会ったのは、昭和55年ごろだったと思う。当時、スポーツ担当をしており、放課後になると高校のグランドに足を運ぶのが日課だった。春から夏にかけては野球が中心、秋から冬になるとサッカーやラグビー…。グラウンドはその主役がはっきりと色分けされ、つねに掛け声が響き渡っていた。
 高校野球の場合、地区の興味は磐城高校だった。この、かつて甲子園で準優勝を果 たした名門校は、特別な存在で、ギャラリーも多かった。当時の監督が早稲田大の硬式野球部で投手をやっていた誉田で、まだ20歳代。地区の期待は高かった。その中に、部員の真田や関根がいた。
 真田の学年は「できの悪い選手ばかり」と言われることが多かった。やたら人数が多いのに使える選手が少ない。しかし、「お前たちはだめだ、へたくそ」と罵声を浴びせられても、黙々と練習についていく。でも、うまくはならなかった。
 ある日事故が起こった。打撃練習中に球拾いをしていた杉山の頭に硬球が当たったのだ。杉山は脳内出血し、手術を受けた。しかし、杉山は部を辞めようとはしなかった。退院後、何事もなかったようにグラウンドに現れ、練習に参加した。この姿勢は、同じ学年の結束を生んだ。だから、どんなに下積みをさせられても、反抗することなく練習をこなしていった。それが、この学年の強さと言えた。
 真田たちが3年生になった。なんと17人が残った。これは、磐城高校にとっては珍しいことだった。普通 、1年生がたくさん入部しても練習が厳しく、バタバタと辞めていく。さらに、少したつと進学と部活の両立に悩み、さらに人数が減る。結局、学年で5人も残ればいい方だった。しかし、真田たちの学年は17人。しかもほとんどが補欠で、ベンチ入りできるのはやっと半分程度、というありさまだった。

上泉の力投

 昭和57年夏。甲子園をめざす県大会が始まった。会場は、地元のいわき。エースは、センスのいい1級下の投手を押しのけた、上泉。上泉は上手投げか横手投げかわからないへんてこな投球ホームで、制球中心の粘り強い投球を見せ、思いもかけない快進撃を見せた。1回戦不戦勝のあと、2回戦は猪苗代を7-0、3回戦も保原を8-0と下して、ベスト16入り。第2シード校の福島北と対戦するまでにこぎ着けた。

シード校撃破

 試合は平球場で行われた。この試合、「ダメなやつら」と言われ続けた選手たちは粘りに粘った。「剛速球投手」との呼び声が高かった左腕の佐藤に対し、球を良く見極め、バットを短く持って鋭く振り抜いた。ファウルで粘り、相手を根負けさせ、四球を選んだ。上泉も踏ん張った。ていねいにコーナーを突き、余分な点を与えなかった。力は明らかに福島北の方が上だったが、徹底した粘りの野球が相手の気持ちにイライラを生み、精神的に優位 に立った。結果、ジワジワと相手を追いつめ、延長戦に持ち込んで4-2のスコアで勝利をもぎ取った。「ダメなやつら」はみんなの力でベスト8進出を果 たしたのだった。
 準々決勝の相手は、この年甲子園出場を果たした安積商。監督はOBの田村隆寿だった。この試合は、つけ入る隙を与えられず0-3。持てる力を発揮し、善戦したものの、完全に力負け。ダメ軍団の夏は終わった。
 真田のことを思うとき、必ず、あの福島北戦のことがよみがえって来る。そして、決してうまくはないのに、ノックに食らいつき、泥だらけになっていた真田の姿を思い出すのだった。

 真田の死

 「真田のことを聞きたい」と思い、関根に電話をかけた。そうでもしないとやりきれなかったのだろう。関根は努めて明るく振る舞っているようだった。そして「いくつだったの」とたずねると「39歳でした」と答えた。関根の独白が始まった。


「カルモシモサカ」 よい豆をよい状態で
下坂が心血を注いで作ったコーヒー豆
日本へは最上等のものが輸入されている

出会い

 関根と真田がお互いを認識したのは、高校1年の春。野球部の部編成で円陣を組んだときだった。勿来二中出身の関根と、錦中出身で、一年浪人の末磐城高校に入った真田。二人は同じ電車で通 っていた関係で面識はあった。何気なく目を合わせたその瞬間から、二人は同じ道を静かに歩み始めたのだった。

下坂の願い

 関根が「ブラウンチップ」で扱っているブラジル産のコーヒー豆「カルモシモサカ」は、いわき市好間出身の下坂匡が精魂込めてつくりあげた。磐城農業高校卒業後、両親と兄姉5人の計7人でブラジルへ渡った下坂は、「農地には絶対無理」と言われたセラードと呼ばれる痩せた荒れ地を開墾。20年の歳月をかけて質のいいコーヒー豆が採れる農園にした。酸性土壌に石灰を入れ、中和させる。それは気の遠くなるような作業だったが、今ではブラジル1のコーヒ-産地になった。その農園の広さは約1500ヘクタール。さらに肥料として鶏糞を使うための養鶏場やニワトリの餌を確保するためのトウモロコシ畑をつくるほど。だから豆の品質は折り紙付きで、評判がぐんぐん上がった。
 ブラジルのコーヒーは輸出されるとすべて「ブラジルサントス」と呼ばれる。下坂はそれが不満だった。ブラジルは広いし、地区によっては気候が違う。その関係で豆の出来不出来が激しい。なのに一律に扱われるのは納得がいかない―。それほど、自分の豆に自信を持っていた。

合流

 関根は大学生の時、2カ月にわたって下坂の農場を訪れた。それがきっかけで東京の荻窪でお茶屋を経営している繁田武之を紹介され、意気投合。「カルモシモサカ」の日本総輸入元として繁田と一緒に東京で商売を始めることになる。そして、その3年後に真田が合流したのだった。
 真田は大学卒業後、金融機関に就職し、須賀川で働いていた。2年を過ぎたころ突然「辞める」と言い出し、関根を頼って東京に舞い戻ってきた。はじめのうちは「とりあえず次の仕事が見つかるまで」という軽い気持ちだったが、関根には「いわきに店を出す」という目標があった。
 それまで孤軍奮闘のかたちだった関根にとって、真田はこれ以上ない同志であり、援軍といえた。

炒って売る

 関根は、「カルモシモサカ」がいかに質のいい豆かを知ってもらうにはどうしたらいいのか、を考えていた。そして「ポイントは鮮度」だと気がついた。どんなにうまい豆でも炒ってしまうと、時とともに酸化が進みまずくなる。炒りたて挽きたてを提供するようにすれば、マイルドな味を持つ「カルモシモサカ」のうまさがさらに際立つはずだ、そう思った。
 焙煎機をオーダーメイドし、注文を受けてから炒って挽くコーヒー豆販売店が誕生した。そして東京の店がある程度軌道に乗ったころ、下坂がいわきを訪れることになった。「チャンスだ。ここを逃がす手はない」と思った。二人はいわきに戻って、平上荒川の福島高専近くにブラウンチップ平店をオープンさせた。平成4年5月12日のことだ。

 しかし、はじめのうちは2人分の給料が出なかった。主に関根は東京といわきを往復し、真田が留守を守った。無口な真田は心を込めてコーヒー豆を焙煎し、金融機関で働いた経験を生かして経理を見た。さらに8年後に錦店をオープンさせ、二人の事業は着実な歩みを見せはじめた。


真田の死 心のにぽっかりと穴が
「死んだ気がしないんです。かわいがってもらった
思い出ばかり」と話す真田の妹・津奈子   

誕生日

 その日は、真田の40回目の誕生日になるはずだった。6月13日。野球部の仲間たちが平・白銀の居酒屋に集まった。幹事役の山野辺が、「真田のお母さんが『まぜてやってください。これ会費です』って5万よこしたんだ。気を遣わないでください、って言ったんだけどな」と報告。みんな神妙な顔になった。すると、関根が「あっ、主役を忘れちゃったよ」と言い出した。いつも店に置いてある真田の写 真を置いてきてしまったらしい。「タクシーで戻って取ってくる」。関根は20分もすると写 真を持って、戻ってきた。 太田、岩崎、鈴木…。みんなが、真田の写 真に生ビールのジョッキを当てて乾杯する。さらに、柳井と星が合流した。「一番野球が下手だったのは、真田か杉山じゃねえか」。思い出話と、真田が好きだった曲のカラオケメドレーがいつまでも続いた。

悲しい出来事

 真田と関根の「ブラウンチップ」は、カルモシモサカというコーヒー豆や、店の姿勢を愛する常連が着実に増え、そこそこ売り上げを伸ばしていた。そのベースが、無口で職人肌の真田と、よく話す営業向きの関根とのキャラクターで、主に真田が平店、関根が錦店を見ていた。そんな二人を野球部の仲間たちがサポートした。錦店がテナントとして入っているビルも、仲間の星が社長を務めている建設会社の持ち物。ブラウンチップの隣が星の会社の事務所、さらに二階がアパートになっており、そこに独り身の真田が住んでいた。そこで悲しい出来事が起こった。
 今年の4月17日朝、真田はブラウンチップ平店に姿を現さなかった。
 関根は前の日の夜、パチンコ店で真田に会っていた。その日、16日の水曜日はブラウンチップが休みだった。昼、関根が電話をすると、真田は「かぜ気味なんで部屋で休んでいるから」と言った。そして夜の9時半すぎ、暇つぶしにパチンコをしていた関根のところに実家での夕食をすませた真田がフラッと現れた。二人はパチンコをして11時ごろに別 れた。特に変わったところはなかった。
 次の日の朝、ブラウンチップ錦店を開けようとした関根は、店の前に真田の車があるのを不審に思った。それが午前10時ごろ。しかし、「かぜをひいて体調が悪いんだろう。昼ごろまで寝かしてやろう」と思った。そして昼近く、関根は携帯に電話したが、まったく反応がなかった。さらに部屋に電話した。何回かけても受話器を取ってはもらえなかった。ドアに付いている郵便受けを開けて中をのぞくと、電話の呼び出し音が異常に大きく感じられた。関根の全身に胸騒ぎが走った。徐々に鼓動が大きくなった。星の会社に駆け込み、不動産屋さんに鍵を持ってきてもらった。星と一緒に鍵を開けて中に入ると、真田がふとんの上でうつ伏せに倒れていた。
 関根の目に、変わり果てた真田の姿が飛び込んできた。部屋の電気がついており、テレビもつけっぱなし。真田の顔はすでに青く変色し、めがねがずれていた。関根は必死に真田の背中を叩き、何回も呼びかけたが返事はなかった。星が救急車を呼んだ。しかし、ダメだった。真田寿信、享年39歳10カ月、死亡推定時刻は4月17日午前1時ごろ。死因は虚血性心筋症だった。

鎮魂のエール

 真田の葬儀の日、仲間たちが集まった。ただひとり、読売新聞の記者でニューヨークヤンキースの松井番をやっている下山田だけは、参列できなかった。山野辺が持っていた磐城高校のユニフォームにみんなが寄せ書きをして、棺に入れた。関根は「ありがとう。少し先に行って練習してろよ。おまえが一番若いだろうから、レギュラーだよ」と書いた。応援団長だった塩原が鎮魂のエールを送った。その声がみんなの胸に響いた。
  関根は、あの日以来、パチンコをやってもちっとも楽しくなくなった。そして、仲間たちが集まったときに、「40ぐらいになると一人か二人かが欠けるんだよな」と言っていた真田の姿を思い出した。
 よく、生き死にの話をするやつだった。健康診断の心電図検査で2回引っかかった。強く言って再検査を受けさせたが、異常は出なかった。最後に会ったのもおれだし、遺体を見つけたのもおれ、やっぱ、因縁なのかなぁ―と思った。真田がいなくなって、店が大変になった。忙しくて酒を飲んで悲しんでいる暇もないほど。そんなおれを、みんなが心配してくれて…。  関根が淡々と語った。関根にとって真田の死は、体の半分、いや全部を持って行かれたようなものだった。関根の心にぽっかりと穴があいた。
 ある日、ブラウンチップ錦店に真田の妹・津奈子を訪ねた。この、真田より6つ下の妹は、関根が真田の死後、役員にして店を手伝わせている。関根曰く「パートだけど役員」だ。そんな津奈子に真田の思い出を尋ねると、「離れて暮らしていたから。死んだ気がしないんです。ひょっこり顔を出すようなそんな感じ」。津奈子は、悲しみを心の奥底にしまい込みながら、笑顔でそう答えた。