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東京の大井町にある「きゅりあん」で詩と音楽の集いを開いたあと、梅乃さんと2人きりで自宅までお伴したことがある。音楽会のあとのせいか2人とも高揚していて、道すがら天平のことを話していた。目黒駅を降りて歩いていたらビルの谷間に虹が出ていた。「あら、天平が来ているのね」と梅乃さんが言った。本当に虹が出ていたのか、いまとなっては記憶がさだかではないが、印象深い出来事だった。
平成10年に大学を卒業して、心平記念館の学芸員になった。そしてたまたま天平を担当した。梅乃さんが心平を訪ねたが留守で天平と出会ったような感じかもしれない。オープンは7月、天平展が12月。初めて担当した企画展だった。
資料を使う許可をもらうのに手紙を書いて電話をした。すると杏平さんが出た。口調がぶっきらぼうだったのでどぎまぎし、話に詰まりながら説明した。至らない点はあったが、その経験がいまにつながっている。その後、梅乃さん、杏平さんとはより深いつきあいをして頂くようになった。
心平はジグザグ、天平はストレートな人生。その世界観は心平より入り込みやすい。比叡山を訪ね、松禅院へ至る奈良坂を実際に歩いて、天平が詩作していた丸窓のある四畳半に立って独特な空気を実感できたことで、詩や散文の世界が現実味を帯びた。梅乃さんが書いた文章も生き生きと迫ってきた。やはり現場に立ってみると、企画展の準備が違ってくる。
今回の生誕100年展は、みんなの思いが「集大成にしたい」ということで一致していたと思う。だから資料のほとんどを展示した。ただ生きていた時間より、亡くなってからの方が長いということは、梅乃さんが天平のためにした仕事をきちんと紹介する必要があった。だから「梅乃さんが生きているうちにもっといろんなことを聞いておけばよかった」という悔いが残っている。
正直、梅乃さんが床に伏してからはその姿を見るのが辛くて、足が遠のいてしまった。さまざまな思いがない交ぜになって、行きたいのだが行けない状態だった。学芸員をやっていると、思いもかけず遺族が劇的に話すことがある。余人の立ち入れない部分に入り込めるというのが、ある意味醍醐味なのだが、逆に親しくつきあったことで遠慮したり、踏み込めないこともある。
天平のもので好きなのは「私のふるさと」。天平に死が迫っているなか、梅乃さんが口述筆記したときの状況が見えてくるし、小川の自然の味わいや情景がよく出ている。それは天平が愛した小川の山野にある心平記念館で仕事をしているからこそ、わかるのかもしれない。