天平アンソロジー

天平アンソロジー

 祝祭

ほしいままに久しくひらけて
噂のやうなものは伝はらず
跡方の知れない
遺されたやうな
にゆあんすとなって
涯もなく
入念に遷つてゆく
ひろびろとした
優れる光を間遠に含み
浅さのぐあいなども等しくして
工夫もなく触りながら
まの辺り
遷つてゆく
それは何といつたらいいのか
その後はただ祝ふばかり
            「河」

 草野天平の代表作とも言える詩だ。ある意味で難解な詩だが、「理解する」という常識的な思いを投げ捨ててみると、薄ぼんやりとイメージが湧いてくる。

 この詩は絵画で言えば抽象画と言える。天平はその視覚的表現を、文字で試みた。自らの内面 にあるイメージを言葉や文字に置き換え、組み合わせていく。イメージに近い言葉をノートに書き、配置を換え、ニュアンスのようなものを詰めてゆく。その作業を繰り返しながら精度を高めていったのだっだ。

 天平晩年の詩を明快に表現したのは、下関在住の佐藤泰正だ。佐藤は自らの評論集でこう書いている。
 「言葉や対象がもはや一切の重みを失い、一切の直接的な描写 や話法が排され、かろやかな濃淡のうちに、うちのべられた一枚の銀箔に似た風趣」

 「河」を読んでみると、「浮遊」とか「超越」といった言葉が浮かぶ。それは、俗からの遊離であるのだが、決して独りよがりではない普遍性のようなものも秘めている。険しくなく、特に事を荒立てることなく、穏やかでゆったりとした日常。そうした日々の中から自然にわき上がる「祝う」という思い。この詩には、そんな温かさというか、うららかさを求める思想のようなものがある。

 朗読者

 「音 楽」         詩 粥塚 伯正

小石川
上小川
相国寺東門前
神楽坂
前橋
上小川
麹町
喜久井町
そして、
上小川
下石神井
比叡山
本覚院
これらの地の名を巡り
一本の河としてそそぎこんだ
松禅院。

あなたは
身体をまっすぐに
据えたのだった。
ひとところにいるという、過酷な旅。

詩を書く行為は、
詩 そのもの、存在となり、

柔らかいものは
柔らかいままに、

透きとおるものは
透きとおったまま、

あいまいなものは
あいまいなままに、

それらすべての有様が
融けあう、
朧夜!
朧夜!

あなたは虚空より
誕まれたての
真珠のふくらみをもって
地上に降りてくる。

今宵、
月は天にあり!

あなたの詩を書く
手は、
月をわしづかみにして
懐に入れる。

ああ!
天上の音楽が
いっせいに鳴りだす!

 昨夏、小名浜スプリングスホテルで開かれた「天平詩と音楽の集い」で発表された粥塚さんの詩。粥塚さんは集いで天平の詩を朗読したが、天平の詩に分け入れば分け入るほど、天平の詩に存在する距離感を考えるようになり、ついには「天平に捧げる詩」ともいえる「音楽」を書いた。

 粥塚さんによると、詩の中の「距離感」は最終的に、天平の詩一編一編と読む側との距離感になって行く。そして詩人としての自分の感性を天平の詩にぶつけ、間をはかっていく。それを何回も繰り返し、詩を自分なりに解釈して、朗読する際の強弱や間などのリズムが決まっていくのだという。

 下関に佐藤泰正さん(天平の研究家)を訪ねた際、佐藤さんは詩における朗読の重要性を話していた。

 「書き手が読むのもいいが、つくったときから詩は書き手の手を離れる。詩というものは、さまざまな人による、さまざまな解釈での朗読によって、新たな命が吹き込まれるものだと思う」

 粥塚さんの朗読は時に速く、時にゆっくりとなり、声の調子も変わる。それは潮の満ち引きにも思え、迫ってくる波の中には粥塚さんの精神が気迫となって存在している。それが、草野天平と粥塚伯正の間にある、独特の距離感なのだろう。

 一見無骨だが実は繊細な粥塚さんの朗読。そこには朗読者にはない、詩人同士の真剣勝負のような緊張感がある。

 自然の摂理

人は死んでゆく
また生まれ また働いて
死んでゆく
やがて私も死ぬだらう
何も悲しむことはない
力むことはない
ただ此処に
ぽつんといればいいのだ

 天平の「宇宙の中の一つの点」という詩だ。親友だった土門拳が、天平の死について書いた文章の冒頭にこの詩を引用した。無駄 を省いた優しい言葉で天平の生きざまのようなものを、さらりと表現していて、好きなものの一つだ。

 何年前だろうか。突然、読者の方から電話をいただいたことがある。私が書いた文章についてだった。

 県政汚職で知事の座を追われ、余生をひっそりと暮らしていた男性が大往生を遂げた。確か、百歳近かったと思う。晩年、私は彼を取材した。もちろん、遠い昔の県政汚職についても尋ね、取材が終わろう とした時、突然、聞いてきた。「私はこれから先、どう生きれて行けばいいのでしょうか」。不意をつかれた私は、即答することができず、 少し間を置いて「思ったように生きればいいですよ。自分の人生じゃないですか」と答えたのだった。

 そんな思い出を書いたところ、電話の主はこう言った。

 「文章を読むとあなたは、うまく答えられなかったと思っていらっしゃるのですね。私は70歳を超したただの年寄りですが、今の私だから言える言葉があります。
いいですか。太陽は何万年もの間、ただ黙って恵みを与え続けてきた。だからといって何の見返りも要求しない。それが自然の摂理なんです。自然の摂理に従って生きるべきです。これが72年にわたって生きた生きてきた男の結論です」

 天平の「宇宙の中の一点」を読むたびに、その電話を思い出す。天平は自然の摂理に従って生きた詩人だった。だからといって世間に向かって大きい声を上げるわけでもなく、思いを腹におさめて遠い眼をし続けた。

 ユキのこと

糸巻きの糸は切るところで切り
光った針が
並んで針刺に刺してあるそばに
につぽんの鋏が
そつとねせてあつた
妻の針箱をあけて見たとき
涙がながれた

 「妻の死」と題する天平の詩。天平の悲しみが情景とともに迫ってくる。ユキの死に関するものは、このほかに「妻の柩」「雪の朝」「さようなら さようなら 優しい隣組の奥さんたち」がある。

 天平とユキの生活は10年に過ぎない。出会った当時は銀座で喫茶店「羅甸区」を開いていたこともあって、比較的裕福な暮らしをしていたらしいが、間もなく人手に渡り、生活は困窮を極めた。杏平の誕生、天平の転職…。そうした苦しい日々が続く中、ユキは自らデパートに勤め、家計を助けた。

 当時交流していた草野悟郎によると、ユキは長野県出身で、父は画家。元松竹少女歌劇の踊り子というだけあって、肢体がスラリと伸びた、色白の美人だった。しかし、派手なところのない清潔な感じのする女性だったという。

 ユキは昭和17年1月8日、29歳で逝った。防火訓練で水をかぶり、風邪をひいてこじらせた。食糧事情の悪い時代で、ユキはみるみる衰弱し、ついには帰らぬ 人になった。眠るような最期だった。

 天平はこの死を目の当たりにして、精神の転機ともいえる激しい思いが全身を駆けめぐる。妻の死が外的要因になって、天平の心の奥深くに眠っていた「詩を書く心」を呼び起こし、一気に詩の世界へと入り込んでゆく。そして、荒野をさまよった自らの心を、悲しみの情景として文字に刻印するようになるのだった。

 処女詩集『ひとつの道』は、ユキの死をきっかけに杏平を連れて上小川に戻った天平が、ひとつの生き方の告白として編んだ。なだらかな阿武隈山系の山並みを見ながら、自らの生き方と対峙し、内面 をさりげなく吐露している

 母

 天平には母が2人いる。生みの母と育ての母だ。実母のトメヨは6歳の時に肺結核で亡くし、10歳の時に新しい母・なおと対面 している。天平は、この継母・なおの影響を強く受け、自らの感性を磨いて行ったのだった。

 なおは佐賀県生まれ。鍋島藩にゆかりのある家柄に生まれ、娘時代には鍋島本家で厳しいしつけを受けた。天平の父・馨と知り合ったころは、料亭の女将をしており、歌舞伎や能を好み、囲碁の相手もできる教養豊かな女性だった。

 なおについてのエピソードは限りなく多い。
いつも中央公論を読んでいたこと、人を叱るときには孔子や孟子の話をを引いたこと。さらに、浪費癖が激しく、値札を見ないで欲しいものをどんどん買ってしまううえに、ワイシャツはダース買い、足袋も特注品しか履かないほど。借金をしに行くのにハイヤーを使うようなとんちんかんのところもあった。

 なおは昭和24年9月1日、上小川で71歳の生涯を閉じた。そして天平は初七日が過ぎるとすぐ、上小川を離れ東京へ向かう。それはまるで、「もう上小川にはいる必要がないんだ」とでもいうような突然の上京だったという。

 天平はその死をきっかけに、より求道的な道を突き進んでいくことになる。東京に出て、戦後の薄命な時代に落胆し、自らの道を極めるために、比叡山へ向かう。
 「人を離れ厳格に身をこらしめて、その寂しさから一層澄み透った内の詩を作るために…」

 梅乃 1

 「天平を知ったのは、昭和56年に発行された文芸誌『6号線』の特集でだった。手にとってページをめくると、白黒のグラビアが目に入った。切れ長の目を持つ詩人の顔は、憂いをたたえており、ただ静かだった。詩を読むとその思いはさらに深くなった。「突き抜けた美しさ」のようなものが作品全体を覆い、そこにはひとつの覚悟を持った人間の生き方があるように思えた。
 以来、昭和27年春に42歳で死んだ、心平の弟のことが気になっていた」(『天平―ある詩人の生涯』・序章)

 昭和56年、入社4年目を迎えた私は26歳。スポーツと福祉を担当する半人前の記者だった。もちろん「草野天平」という名前など聞いたこともなかった。ある日、会社で『6号線』の最新号が目に留まった。そこで天平を初めて知った。「天平」という名前にときめきを感じページをめくると、写 真があり、その顔に引きつけられた。
 後年、天平のいとこで、交流が深かった草野悟郎さん(元平二中校長・故人)は「憂愁森厳をたたえたもの静かな顔」と表現したが、まさにその通 りの顔をしていた。決して深刻ぶっているわけで なく、ただ静かにその場所に存在していた。そして、土門拳が書いた「棺の上に飾る写 真」にも興味をそそられた。

 その16年後、自分が天平が亡くなった42歳になったとき、思い切って梅乃夫人に電話をかけることになる。
 当時、天平の人生を知る手がかりは、神山誠さんが中外日報に連載した「比叡山に死す―草野天平伝」ぐらいしかなかった。まず、天平の人生をトータルで知りたいと思い、「最初は梅乃さんへ」と思ったのだ。  

 梅乃さんはキリッとした声で「はい、ございます。では、コピーしてお送りしましょう」と言った。そして数日後、美しい文字の添え書きと一緒に100回以上連載された新聞のコピーが送られてくる。このとき「天平を書く」という思いが体の中でかたちになった。

 梅乃さんに実際にお会いするのは、それから3年の歳月を要することになる。日々仕事に忙殺されていた報道部長というポジションから編集委員という好きなことを自由にできる立場に変わり、余裕が出た。さらに草野心平記念文学館が「草野天平展」を開くことになり、連載のきっかけができたのだった。

 平成10年の秋、JR目黒駅前で初めて梅乃さんに会った。足を折ったあとで、杖をつきながら迎えに来てくれた。白髪交じりのショートカットと大きな瞳が印象的だった。
 「天平とは何ものなのか」―梅乃さんの道案内を受けて、天平探しの旅がそろりそろりと始まった。

 梅乃 2

 「心の壁」というのがある。「遠慮」という言い方もできる。取材をするうえで、それは大きな障壁となり頭の中で堂々巡りが繰り返される。そんなとき、「自分は記者に向いていないのではないか」と後ろ向きになり、ため息が出る。

 「天平」を書こうと決意したとき、「中途半端なものにしたくない」と思った。それには最も重要な証言者になる梅乃さんと信頼関係を築かなければならなかった。
 「梅乃さんという、天平にとって特別な女性を目のあたりにして決して特別な目で見ることなく、目線も心もフラットにすること」。そう自分に言い聞かせ、表面上は淡々とすることを心がけ、取材に入った。

 「いいですか梅乃さん。これからは聞きにくいことも聞かなければなりません。嫌な思いをするかも知れませんが、心の準備は大丈夫ですか。あとは私の良識を信じてください。お願いします」

 この理不尽な要求に、梅乃さんは、つるりとした顔で「はい、どうぞ」とあっさり簡単にOKを出してくれた。しかし実際には、梅乃さんが大事にしている思い出にずかずかと土足で踏み込むような気がして、思うような質問はできなかった。

 3回ぐらい取材をしたあとだったと思う。自分の中の心の壁が少し崩れてきたような気がした。そこで言った。
 「もう一回取材させてください。まだ聞きたいことが聞けてないんです」。梅乃さんは「あら、ずいぶん話したような気がしたけど、まだあるんですか」と意外な顔をした。

 残った質問は梅乃さんの人生についてだった。取材を続けるうちに「草野梅乃」という女性の人生をきちんと理解できない限り、天平は書けない、と思うようになっていた。「梅乃さん、これからが本当の取材のようなものです。お願いします」。よほど真剣な顔だったのだろう。梅乃さんは「はい」と言ったあと、「私はこれまでも包み隠さず話していますよ」と、優しく笑った。

 梅乃さんはJR山手線の目黒駅から歩いて2、3分のところにあるマンションに住んでいる。その日は、午後1時ごろから6時ごろまでぶっ続けての取材になった。
 二人は居間の椅子に向き合って座り、話をした。そして梅乃さんは真摯に自分の人生を語った。
 厳しい家で生まれ育ったこと、小児肺炎で入院したこと、進むべき道を誤り大学を中退したこと、浪人の末、大学に入り直し、国文学を学んだこと、幼なじみの画家と結婚し、自分は教職に就いたこと。そして、天平と知り合い、夫と別 れることになったこと。
 当時の梅乃さんの悩みは純粋で直線的だった。そんな時、天平と出会い、梅乃さんは目を開かされる。梅乃さんにとって、天平のいない人生など、考えられなくなっていたのだという。

 ゆったりとした時間が過ぎていった。そして、連載をするうえでのシンのようなものがしっかりと見え始めていた。

 その時の取材をきっかけに、自分の中にあった心の壁は完全に消滅した。帰り道、東京駅とつながっているデパートのレストランでそばを食べながらビールを飲んだ。取材メモを見ながら、心の中がぽかぽかしてきた。雲の上を歩いているような気分になりながら、いわきへ戻ってきた。

 その時の取材は、その後の連載、出版という流れの中で、大きなエポックメーキングとなった。そして、『天平―ある詩人の生涯』のあとがきでこう書くことになる。

 「ルポルタージュとは、小説でも、評論でもない。『報道すること』の延長だ。書き手と取材対象者が、ひとつのゴールへ向かって走り続ける。その展開や結末は最後までわからない。ただ、事実だけを積み上げ、書き手が報告者となって、ストーリーを組み立てていく。お互いが信頼しあい、すべてを明らかにしながら、作業は進んでいく。だからこそ、『ルポルタージュを書く」という行為には、『ある覚悟』が必要なのだと思う」

 梅乃 3

 梅乃さんが天平と初めて会ったのは、昭和24年12月24日のクリスマスイブ。その日、神田神保町のバー「らんぼお」で「歴程詩の会」が開かれており、教え子の宮崎恭子さん(のちの仲代達矢夫人・故人)と一緒に集いに参加したのだった。

 このエピソードは、梅乃さん自身が書いているのだが、なかなかいい。会場は昂揚し、次から次へと歌が歌われた。梅乃さんはその場で、サモアの恋の歌をサモア語で歌った。

 「サモアの恋の歌」。それはどんな歌なのだろう。しかもなぜ、サモアの恋の歌なのだろう。そんな素朴な疑問を、梅乃さんにぶつけたことがある。すると梅乃さんは「弟がね、そういうのが好きで持っていたもんだから、聞いていたんです」と教えてくれた。

 ちなみに、他の出席者は「ラ・マルセイエーズ」などを歌っており、宮崎さんもシャンソンをフランス語で歌ったのだった。しかし、そのサモアの恋の歌が、天平の記憶に強く刻印され、梅乃さんと天平の運命の糸が絡まっていくことになる。

 その、サモアの恋の歌を思いもかけず聴く機会が訪れた。文藝 春秋社に勤めるかたわらチェロを弾いている星衛さんが、梅乃さんの記憶を頼りに譜面 に落とし、メロディーをよみがえらせたのだ。とっても短くメロディーラインもシンプルだが、何ともほのぼのとしていて、人間の心のひだに染みいるような曲だった。

 以来、星さんは天平の詩と朗読の集いでは、この曲を最初に弾くことをルールとする。集いではその「サモアの恋の歌」が、天平の霊との邂逅へと誘い、出席者それぞれの思い出や思いが、心の中で膨らんで行く。

 梅乃 4

 天平が梅乃さんのことを書いたエッセイに「挨拶」がある。その中で重要な役割を持っているのが、ベートーヴェンのピアノソナタだ。

 天平はその文章の中でこう書いている。
「梅乃はベートーヴェンののピアノソナタの何番かを聴いた。そして本当に奇麗だと思った。彼女は動かず、そこに暫くじっとしていた。このソナタには昔、挨拶という題がついていたそうだけれど、もしそれが本当だったとしたら、どんなにか真心のこもった挨拶の仕方だったろうかと思った。そして自分もこういう奇麗で、しかも丁寧な人になりたいと思った」

 この文章を読んだとき、梅乃さんという女性はどういう人なの か調べたい、という突き上げるような思いがわいた。そして、ソナタは何なのか、実際に聴いてみたいと思った。

 すぐ、梅乃さんに問い合わせてみたが、よくわからない、と言う。「聴けばわかる」と言うので、当時「名曲の夕べ」を開き、天平と梅乃さんにレコードを聴かせていた小森重明さんを訪ねた。

 小森さんは「調べてみましょう」と約束し、後日手紙が届いた。ソナタは4大ソナタの1つ「告別 」だという。すぐ、CDを探し、ルービンシュタイン盤をテープに録音して、すぐ梅乃さんに送った。梅乃さんの返事は「この曲でした」だった。

 第3楽章。まるで弾むようにピアノが奏でられる。「まさに心を込めた挨拶だ」と、しみじみ思った。そして、40数年ぶりに梅乃さんに思い出深いこの曲を聴かせることができたことが、何よりうれしかった。