
挨 拶
梅乃はベートーヴェンのピアノソナタの何番かを聴いた。そして本当に奇麗だと思った。彼女は動かず、そこに暫くじっとしていた。このソナタには昔、挨拶という題がついていたそうだけれど、もしそれが本当だったとしたら、どんなにか真心のこもった挨拶の仕方だったろうかと思った。そして自分もこういう奇麗で、しかも丁寧な人になりたいと思った。彼女は今年三十歳、頭もよく世間からは変り者といわれてきた。然しなぜそう思われるのかは解らない。ただ本当のものだけを見つめて来たのだ。
レコードを聴き終って独り彼女は、そうだ、と心に思った。明日からは髪も地味に束ね、そして着物を着ねばならないと思った。自分の通って来た道は決して嘘ではない。そしてこれからの道も恐らく本当であろう。彼女は涙が出た。そして友にレコードの礼を丁寧に手をついて述べ、静かにしかも確かに席を立った。
(昭和25年に「都新聞」に掲載された天平の散文)