蔡國強といわきの物語

1. プロローグ


この10年を話す蔡。会場の立派さと演出に
「結婚式みたい」と笑った

出版パーティー

 7月17日の夜、蔡國強はホルストの「木星」に包まれるように、会場に姿を現した。場所は平字1町目のワシントンホテル。9年前、ほとんど無名だった蔡を支え、地平線プロジェクトを成功させた仲間たちが、蔡といわきの関わりを本にし、出版記念パーティーを開いたのだった。長身の蔡はにこやかにテーブルを回り、握手しては旧交を温めた。

地平線プロジェクト

 1994年(平成6年)の3月7日午後6時38分、確かに海上を火薬の光が走った。
 連日のように報道される蔡のプロジェクトに関する動き。人々の心には、何か面 白いことが起こるような、そんな期待感が知らず知らずのうちに育まれていた。前日、波が高くて延期になったことも、市民の好奇心を刺激したのだろう。沼の内から四倉までの海岸線には、5000人もの人が海を走る火を見たくて集まった。
 何を期待していたのか、それはわからない。蔡のプロジェクトの意味を理解していた人が何人いたのか、それもわからない。たぶん、ほとんどの人がもの珍しさから、海岸線へと走ったのに違いなかった。自分もそんな一人だった。
 少し早めに新舞子海岸へ向かい、暗闇の中でただ、真っ黒い海だけを見つめた。何分たっただろうか。何とも弱々しい光がゆっくりと海上を進んでいくのが確認できた。その赤い光は「パフォーマンスやイベントの延長」として見ていた人たちには、何の感動も与えず、落胆だけを残して目の前を通 り過ぎていったのだった。
 そして9年。あのプロジェクトを上辺でしか見ていなかった自分のところに出版記念パーティーの招待状が届いた。送り主は、ギャラリー磐城と泉ヶ丘を経営している藤田忠平だった。「本の取材をしたい」と電話をすると、「泉ヶ丘のギャラリーに一日中いるからどうぞ」と言う。何の予備知識も持たずに、ただ、蔡といわきの関係を知りたくてギャラリーに向かい、そこで蔡といわきの人たちとの物語を知った。そこには利害抜きの、人と人との心のストーリーがあった。「追いかけたい」と思った。
 パーティーでは、プロジェクトに関わった、さまざまな立場の人たちがスピーチをした。蔡の人間性なのだろうか。会場は穏やかな空気に包まれていて、蔡からも少し話を聞くことができた。しかし断片的で、取材と言うにはほど遠かった。

2次会へ

 蔡は次の日の朝早く新潟へ向かい、その足で東京へ戻ってニューヨークへ帰ってしまうという。「どうしたものか」。思案に暮れていると、藤田ともにプロジェクトを実行させる大きな力となった志賀忠重が「これから2次会に行くんですが一緒にどうですか」と誘ってくれた。レンガ通 りの磯勘に席が用意されているという。「願ってもないことです」と言い、言葉に甘えさせてもらうことにした。蔡は実にうまそうに日本酒を飲み、魚を食べた。そして真摯に、しかも力強く自らの芸術を語った。だれもが蔡との再会がうれしいらしく、温かい会になった。

真夜中の握手

 午前1時近かった。蔡が泊まるホテルの前で、「どこまで本質に迫れるかわかりませんが…。ありがとうございました」と、別 れのあいさつをした。すると蔡は「いいから」とあいまいな受け答えをしたあと、「これからこれから、楽しみは先にとっておこう」と、おどけて笑った。そして、「志賀さんに作品のCDを預けたから自由に使って」と言い、握手をした。実にしなやかな掌の感触だった。

(この項つづく=敬称略)

2. 蔡の生まれた街


実家に飾ってある中国時代の油絵 当時の苦悩が見える

 地平線プロジェクトを支えた志賀忠重は、蔡の故郷・福建省泉州市に1回だけ行ったことがある。万里の長城を1万メートル延長するプロジェクトが行われた1993年のことだ。きっかけは単純だった。蔡が土産に持ってくる中国茶が実にうまい。聞いてみると生まれ故郷の安渓鉄観音茶だと言う。「じゃあ、本場のお茶を飲みに行こう」ということで、1週間ほど泉州を訪れたのだった。
 志賀は、そこで初めて蔡が生まれ育った家を訪ね、書家であり、水墨画家でもある蔡の父親と会った。そして、蔡の芸術の原点が、その家にあることを実感した。

華僑のふるさと

 泉州は1000年以上前から海のシルクロードの玄関として知られている古都で、マルコポーロも「東方見聞録」の中で、エジプトのアレクサンドリア港と並ぶ世界2大貿易港と評している。人口は約655万人。東海岸に位 置し、海峡を挟んですぐ向かいには台湾がある。年平均気温が20.5度という亜熱帯海洋性気候。日本だと沖縄とほぼ同じだ。
 長い間貿易港として栄えた泉州だったが、その後河口が自然の泥砂によって埋まってしまい、大型船が入港できなくなって、衰退の一途をたどることに。そして、人々は華僑として台湾や東南アジアの国々へ渡ることになる。

 志賀は泉州の古い街並みを歩きながら、その歴史と蔡の人間性を思った。頑ななところがなく穏やかで、さまざまな変化にも対応できる。それは、同じ家の中に仏教徒もイスラム教徒もキリスト教徒もヒンズー教徒も混在するという、おうような世界で育ったからなのだろう。文化が交流し合うことで多様な価値観を持ち得た泉州で生まれ育ったからこそ、あの、柔軟思考の蔡があるのだろう、と思った。

造反有理

 蔡は1957年に生まれた。そして1966年、蔡が9歳の時に文化大革命が起こる。既存の権威が次々と否定された。「泉州の誇り」ともいえる開元寺も紅衛兵によって壊された。蔡も紅小兵として教室の机や椅子を壊した。毛沢東の「造反有理」という思想。つまり、権威は尊敬しない。今までのすべてを否定し新しいシステムをつくろう、という考え方。蔡は優等生でリーダーだった。積極的に毛思想を学び影響を受けた。それが、時代の風を受けるに従って蔡の体の中で独特の変化をもたらし、より自由な表現を求めるようになっていく。
 蔡はテレビのインタビューで、毛思想と自分の作品の関係についてこう言っている。
 「『造反有理』という考え方にはもちろん間違いはいっぱいある。しかし、方法論として影響を受けた。体の中に刻まれている」
 青年になった蔡は上海演劇大学美術学部に進む。1981年のことだ。伝統的な油絵を描いていた蔡の心の中に既存の表現に対する疑問がわき上がってきた。それは「あまりに魅力と偶然性に欠け、コントロールしやすい。アートはもっとメチャクチャであっても良いのではないか」という思いで、実際、授業はちっとも面 白くなかった。そこにはアカデミックな指導に対する反発もあった。父とも議論した。より新しいものを求めようとする蔡に父は言った。「もっと足元を見ろ。中国の芸術の中にも学ぶものがいっぱいあるはずだ」。
 蔡は苦悩していた。そして、当時婚約者だった呉紅虹と一緒にシルクロードやチベットへの旅を敢行する。近代中国社会の大きなうねりの中で、自分はどこへ行こうとしているのか―。それは自分探しの旅でもあった。

苦悩とジレンマ

 泉州の蔡の実家には1枚の油絵が飾ってある。「どこへ行っていいかわからない自分」といった意味の題名がついている。絵を描くことが大好きだった蔡は、まず西洋絵画をめざした。既成の路線に飽きたらずに自分なりの表現を求めるようになった。しかし、当時の中国ではそれが思うようにできず、どうしようもないジレンマに陥った。そうした状況を打開してくれたのが、シルクロードの旅だった。さまざまな遺跡や人々が生きてきた手跡と接すれば接するほど、自分が中国人であることを強く意識するようになった。そして、中国人が発明し、身近な存在である火薬を使っての火薬画へと移行していくことになる。

(この項つづく=敬称略)

3. 鷹見との出会い


「太古の烙印―No.9」紙 岩彩火薬 1985

 蔡國強の芸術を語る時、テキストのようになっている文章がある。1999年の『美術手帖』3月号に掲載された「龍、奔る―全時空的旅程総覧」。美術評論家の鷹見明彦が書いた。そこには1987年から1998年までの、鷹見の目から見た蔡の道程がきちんと書かれている。

来日

 蔡は1986年12月に来日した。そのころの中国は、トウ小平の対外開放政策が進み、私費で留学する人たちが急増していた。とりあえず日本語学校に籍を置くかたちでの留学が多く、特に上海周辺からが目立った。蔡も、そうした波に乗って来日した一人、と言えた。  蔡が来日した1986年の12月から鷹見と初めて会った1987年の7月まで、蔡が日本でどんな暮らしをしていたかは、定かではない。ただ、ごくわずかな断片的な情報を組み合わせてみると、当時の生活ぶりがほんの少し垣間見ることができる。
 逸話の一つ。地平線プロジェクトに携わった志賀忠重が夫人の呉紅虹から聞いた。ほとんどの時間寝ていた、というのだ。呉は寝てばかりいる蔡に「どうしてそんなに寝てばかりいるの?」と尋ねると、蔡は答えた。「近い将来寝る暇がなくなるほど忙しくなる。だから今のうちに寝だめをしているんだよ」と。
 さらにもう一つ。蔡の文章。
 「日本に来たとき、まず銀座の沢山の画廊を廻ってとても興奮しました。千軒もあるという画廊は、すなわち千のチャンスがあると…。しかし自分で絵を持ってきた留学生たちの絵を見ないのが皆そうであるなら、画廊は一つもないのと同じだった」
 年平均気温が20度強という温かい泉州から時には氷点下にもなる最も寒い東京に降り立った蔡。自らの原始壁画を拓本にした火薬画などを持ち、意気揚々とやって来た日本のはずだった。しかし、そこは自分が思っていたイメージとかなりの隔たりがあった。東京・板橋の「銀嶺荘」という小さなアパートで、体と心の寒さに耐えながら妻と途方に暮れている、そんなシーンがフラッシュバックのように現れては消えた。

国立で

 1987年7月のある日。鷹見は東京・国立市の街はずれにあるギャラリー「KIGOMA」を訪れた。小さなビルのペントハウスにある3坪ほどの空間。1ヵ月ほど前にたまたま手にしたDMに「火薬画」の文字があり、それに惹かれて訪ねたのだった。わかりにくい場所で見つけるのに苦労したが、扉を開けると、そこはまるでほの暗い洞窟のようだった。壁はほとんどが大きな絵で埋まっており、褐色や群青の背景から象形文字のような人型や天体らしいかたちが浮かびあがっていた。「まるで原始絵画が渦巻く洞窟にでも入ったようだ」。鷹見はそう思った。
 長身の蔡はその空間の奥に座っていた。名刺には、中国や上海、福建省の肩書きがたくさん並んでいた。さらに150号の大作には300万円の値が付いており、日本の美術年鑑に自分の中国でのキャリアを照らして換算した、とたどたどしい日本語で説明した。そして「こんなに賑やかな街なのにどうして客が来ないのだろう」。蔡はそう言った。

ギャラリー磐城

 この二人の出会いが蔡といわきをつなぐきっかけになった。父親の仕事の関係で、いわきを訪れた鷹見が、平レンガ通 りのギャラリー磐城に立ち寄ったのだ。そこで鷹見は、オーナーの藤田忠平に「火薬画をやっている中国人アーティストがいる」と蔡を紹介する。1988年のことだ。3月に東京の江古田にある「ギャラリーフォレスト」で蔡の個展があるという。「じゃぁ、見に行きましょう」。藤田が答えた。その後、切っても切り離せなくなるほど、強い絆で結ばれることになる、蔡といわきとの関係がつながった瞬間だった。

(この項つづく=敬称略)

4. 藤田の思い


火薬画「龍の二」を制作する蔡 1993年

 1988年(昭和63年)の3月、ギャラリーいわきを経営する藤田忠平は、東京・江古田にあるギャラリー・フォレストにいた。父親の仕事の関係でいわきを訪れ、藤田のギャラリーに立ち寄った美術評論家の鷹見明彦。その時、鷹見に見せられた蔡國強の火薬画の写 真に激しく心を揺さぶられた藤田は、その現物を実際に見るために上京したのだった。
 蔡の火薬画と向き合った藤田は、ある作品の前で動けなくなった。それは、中国にいるときに制作したもので、「印触」という題が付いていた。カンバスに褐色系の油絵の具で下塗りをし、そのあと火薬で爆発させ、模様というかモチーフを浮き出させる。火薬の量 が多く勢いが出たのだろう。カンバスのところどころに穴が開いていた。横48.5センチ、縦39.5センチ。この絵には40万円の値段が付いていた。
 「どうしても欲しい」。藤田はそう思った。しかし、金がなかった。ギャラリーのオーナーと話し合い、分割払いにしてもらって購入することにした。  蔡とも話した。蔡は片言の日本語で、明快に作品や制作の意図を語った。「一度アパートに寄せて欲しい」。藤田が言った。「ああいいですよ。いつでもどうぞ」。蔡は屈託なく答えた。それから、蔡と藤田の切っても切れない関係が始まった。

銀嶺荘

 当時蔡は、都営地下鉄三田線の板橋本町駅から歩いて10分ほどのところに住んでいた。木造平屋の棟割りアパート「銀嶺荘」。蔡はそこの4畳半一間の部屋に、油彩 画家で夫人の呉紅虹と一緒に暮らしていた。部屋には中国から持って来た二人の作品や画材が所狭しと置かれ、天上にも作品があった。家財道具といえばベッドと小さな机だけの部屋。そこは間違いなく、蔡と呉二人の小宇宙と言えた。
 藤田はまず、駅で蔡と待ち合わせ、その住居兼アトリエを訪ねた。生活は苦しそうだった。しかし、蔡は苦しいそぶりなど見せなかった。それまで何回か開いた個展では、額を買うことができず、画材屋から額を借り、売れた分だけ代金を支払う方法を取った。だから傷が付かないように慎重に額装した―と言った。そうした生活ぶりを見て、蔡と話しているうちに、藤田の心の中に「いわきで蔡の個展をやりたい。損得ではなく、いわきの人々に蔡の作品を紹介したい」という思いがわき上がってきた。蔡に促すと、「いいですよ。やりましょう」と、つるりとした顔で言う。蔡の、いわきで初めての個展が決まった瞬間だった。

革命の根拠地

 その年の5月、平レンガ通りのギャラリーいわきで、蔡の個展「火薬画の気圏」が開かれた。作品は火薬画が中心だが、中には1980年から1983年にかけて制作された油絵も含まれていた。蔡はそれらの珠玉 の作品に「売れないと困るから」と破格の値段をつけた。それは、藤田にとって驚きだった。藤田は、できるだけ蔡の作品をさばいてやろうと思い、知人や友人に「とっても良い作品です。買っておいて損はないですよ。将来、絶対伸びる作家ですから」と勧めた。そして藤田は、それをきっかけに、いわきで蔡と呉の個展を積極的に開き、蔡といわきを結ぶきっかけをつくっていくのだった。
 蔡は書いている。
 「私は東京から出て、毛沢東の“農村が城市を包囲する”という戦略のように200キロも離れたいわきにやって来たのです。いわきは私の“井岡山”のように“革命の根拠地”です。いわきの人たちは、私と妻を中国人アーティストとして新鮮な目で評価し、そして変わらない一人の人間としての優しさまで評価してくれて、どんどん親しくなりました。最初、絵は数千円から数万円、一点一点は持ちやすく、絵そのものは友をつくる縁となり、私たち家族の生活を支えてくれました。日本に生き残り、万里長征の出発の自信となったのです」

(この項つづく=敬称略)

5. 河口龍夫とともに


1998年にいわき市立美術館で開かれた「呼吸する視線 河口龍夫—みえないものとの対話」での河口

 蔡國強は1989年から91年までの3年間、筑波大総合造形研究生として河口龍夫の研究室に所属していた。河口は当時筑波大芸術学系の助教授で、20年にわたって留学生を1人ずつ受け入れ、指導教官として面 倒を見ていた。蔡が現れたのは、ちょうど留学生が途切れた年だった。河口は、その年は留学生を取るつもりはなく、純粋に制作・教育活動をするつもだった。そんなところに蔡がやって来たのだった。

呉の涙

 河口龍夫。この日本を代表する現代美術作家は、「見えること」と「見えないこと」の関係を作品化することで知られている。種子から未知なるエネルギーを感じ、植物種子の生命エネルギーを包み伝導させる、というコンセプトで作品を制作するようになった。河口によると、「種子のエネルギーが発揮されるのは、発揮できる状態や条件が整ったとき。つまり、エネルギー発揮の関係が生じたとき」なのだと言う。
 それがチェルノブイリ原発事故以降、種子は鉛で覆われるようになる。それはあまりに大きな衝撃だった。河口はあの事故以来、伝導させる銅ではなくて種子を放射能から保護するために、鉛を積極的に使うようになった。河口という作家は社会的事象が外的要因になって体内に深く蓄積され、それが作品に色濃く反映されるタイプと言えた。そしてその表現が実に美しいのだった。
 なぜ河口だったのか―。それは定かではない。偶然だったかも知れない。いずれにしても、蔡は作品を持って、夫人の呉紅虹と一緒に河口の研究室のドアをノックした。河口は一応話を聞いたが、「申し訳ないけど、今年は研究生を取るつもりはないんです」とやんわりと断った。その瞬間だったという。呉の美しい瞳から涙がこぼれた。河口は動揺した。そして、この中国人の夫婦を気の毒に思った。「じゃぁ、作品だけでも見てみましょうか」と言うと、呉の涙がほほえみに変わった。蔡が持ってきたのは火薬画だった。河口はその作品に迫力というかスケールを感じ、引きつけられた。そして最後には「引き受けましょう」と言うはめになった。

天安門事件

 蔡が研究生になったばかりのことだった。中国で天安門事件が起こった。6月4日、人民解放軍が広場の学生を武力鎮圧し、中国政府は319人が死亡したと発表した。河口は蔡の心中と中国の行く末を思った。そして、中国野菜の種子を鉛で封印した作品が生まれた。
 蔡は河口からすべてを学び取った。研究生の仕事というのは秘書というか弟子のようなもので、授業の助手はもちろん、美術界のしきたりを学んだり、展覧会の段取りの手伝い、買い物などをした。積極的に人とかかわり、日本語も上達した。
 河口にとっても蔡は礼儀正しく、貪欲で有能な研究生といえた。とにかくどんなことでも恥ずかしがらずに聞いた。本棚の本や図録、パンフレットも興味を持つと、「読んでいいですか」と許しを請う。とにかく勉強熱心だった。河口の展覧会があればその下準備を手伝い、会場に待機して河口の作品の説明までした。河口は、その心根の優しさに驚いた。「あんなふうに私のために動いてくれたのは、今まで肉親以外はいませんでした」と、静かに言った。
 蔡に河口のことを聞いてみた。「河口先生のところでは、アーティストがすべきこと、しなければならないことを勉強させてもらいました。あの期間は、今の私にとっても役に立っています」。蔡はにこやかにそう答えた。
 この夏、河口に電話をし、蔡に関する取材をした。河口は3月に筑波大芸術学系教授を退官したのだという。そして、蔡を「蔡さん」と呼び、思い出話を始めた。その電話は1時間近くに及んだ。
 「蔡さんのこれからはどうなるんでしょう」。そう尋ねた。すると河口は「周りが蔡國強をどう使うか、ということでしょう。そこで生まれる、現実的にできることと、彼がしたいことの間でのギャップ。それをどう処理していくのか。ある意味では拒絶していくのか。名前が出ない作家は確かに孤独だけれど、縛られない自由がある。逆にもてはやされることによる孤独、というのもある。要は、今後蔡さんがアーティストとして、どういう芸術活動のスタンスを持つか、だと思うんです」と言い、名残惜しそうに電話を切った。

(この項つづく=敬称略)

6. 宇宙と対話する


1993年に中国大陸の砂漠で行われた「万里の
長城を1万メートル延長するプロジェクト」

 1993年(平成5年)2月27日、蔡國強は「万里の長城を1万メートル延長するプロジェクト」を行った。万里の長城の終点・嘉峪関を起点とし砂漠の上に1万メートルにわたって導火線を敷設し、夕方に600キロの火薬を100秒間爆発させるというプロジェクト。蔡は1989年(平成元年)から、「外星人のためのプロジェクト」と名づけて、宇宙と対話する、というコンセプトで創作活動を続けており、地球上の人間が造った建造物の中で唯一月から見えると言われる万里の長城は、格好のモチーフといえた。
 蔡は書いている。
 「爆発の一瞬、時空が混沌化する。宇宙が近くに来る。(中略)宇宙への帰還、同胞を探す試みは、人類の永遠の宿命的課題なのだ」

アイディア

 この時期、蔡は火薬によるさまざまな表現方法で、いわゆるET(外星人)との対話を試みるための大規模なプロジェクトを精力的に行っていた。そんな中で、藤田忠平と志賀忠重が万里の長城延長プロジェクトに参加した。いわきで再三にわたって個展を開いているうちに心がうち解け、蔡が誘ったのだった。
 プロジェクトの起点となった嘉峪関は、日本からだと飛行機で2時間、さらにマイクロバスで17時間という行程。志賀は長旅の疲れとあまりの寒さで風邪をひき、高熱でうなされるはめになった。しかし、その帰り道、蔡が志賀たちに言った。「いわきでも何かやりましょう」。地平線プロジェクトが動き始めた、記念すべき瞬間だった。
 余談だが、蔡は刺身が好きなのだという。わさびを食べたときのツンと抜ける感じが、作品をつくり出す感触に似ている、と志賀に話したそうだ。
 蔡の頭の中にはアイディアが渦巻いていた。それを紙にイラスト入りで書いては仲間たちに説明した。紙はたちまちいっぱいになった。市立美術館が蔡の企画に興味を示した。日本に来て初めて、公立美術館での展覧会という道が開けた。やはり、いわきは蔡にとって「革命の根拠地」だった。プロジェクトと展覧会、太平洋と美術館。蔡の頭の中に1つのプランが浮かんだ。「いわきのキーワードは海。それは自分が生まれ育った泉州と同じ。海を使って、仲間たちと一緒に何かをやれないか」。そんなことを思いながら、海に火を走らせる地中線プロジェクトの芽が生まれたのだった。

実行会

 志賀たちは何とか蔡のプロジェクトを成功させてやりたい、と思った。気の合う仲間たちが集まって「実行会」を組織した。「必ず実行する会」だからあえて「実行委員会」にはしなかった。その名称に、みんなの思いと責任が凝縮されていた。最初のうちは募金を募ることも考えたが、まともにやろうとしたら数千万円かかる。到底集めるのは不可能だった。あとは創意と工夫、さらに真心で蔡のプランをかたちにするしかなかった。
 ある日、志賀が蔡に言った。
 「芸術がわかりにくいものでは、一般の人の理解や協力が得られない。より多くの人にわかってもらうには、すっと心に入っていくような理由づけが必要だ」  すると蔡は、一枚の紙を持ってきた。そこには「この土地で作品を育てる ここから宇宙と対話する ここの人々と一緒に時代の物語をつくる」と書いてあった。
 仲間たちは、蔡の発想力と言葉遣いのあざやかさに感動した。ほとんどのメンバーが美術館に行ったことなどない、という人種。そうした人々が、蔡国強という中国人アーティストの想像力を共有し、それをかたちにするために「まかしとけ」と胸を叩いた。その理由は「なんだかおもしろそうだど。やってみっぺ」という単純明快な理由だった。

(この項つづく=敬称略)

7. 始動


1993年10月から5カ月間蔡が住んだ高台の家(左)
庭ではスタッフによって菊の栽培が行われた

 この土地で作品を育てる/ここから宇宙人と対話する/ここの人々と一緒に時代の物語をつくる―。
 これが蔡が提示した「いわき地平線プロジェクト」のコンセプトであることはすでに書いた。蔡はそれを実現するために、「いわきに住みたい」と言い始めた。蔡の条件は、海が一望でき、庭で菊の花が育てられること。志賀忠重は「そんな都合のいい場所が一時的に借りられるんだろうか」と思いながら四倉海岸一帯を探したが、やはり条件にかなう家は見つからなかった。
 あきらめかけていると、知人から「よさそうな一軒家がある」という情報が入った。すぐ持ち主を教えてもらい、趣旨を説明するとOKだという。しかも、菊が四倉の白岩地区の特産であることもわかった。「こりゃさい先がいいぞ」。志賀は心の中でつぶやいた。  なぜ菊なのか。菊は漢方の処方で目と精神の安定にいいという。蔡は、いわきで育てた菊を茶にたてて、自分たちで焼いた茶器で美術館でふるまい、ゆったりとした気持ちで自分の作品を見てもらいたいと思った。自分がいわきに身を置き、いわきの人々と、いわきのものを素材に、いわきで作品をつくり育てる。それが蔡のやり方だった。

海の見える家

 その家からは太平洋がよく見えた。蔡は、その家に1993(平成5)年の10月から翌1994年の2月まで5カ月間滞在し、プロジェクトの準備や作品制作を行った。その最初の作業が菊の苗を植える作業だった。1993年の春、作業が行われた。すでに家は確保されていたが、そのころ蔡は忙しく、なかなかいわきに来ることができなかった。ある日、スタッフにファクスが入った。「あの庭に菊を植えて欲しい」と書かれてある。早速、地元の菊栽培農家から苗を分けてもらい、仲間たちで植えることにした。まず、土をならし、秋の収穫を願って菊苗をていねいに植えた。
 いわき市立美術館の平野明彦は、プロジェクトの初期段階からかかわった中の一人だ。最初の菊づくりから参加し、スタッフの一員として、蔡がイメージしたものを実現するプロセスを傍らで静かに見ていた。そして、書いている。
 「蔡のプロジェクトは単なるイベントではない。プロジェクトとは生き物である。それはプロジェクトに関わる様々な人々の時間意識を糧として成長を続ける。結果 的に満足な資金がないままに出発した地平線プロジェクトに参加した人々は、蔡の語る言葉に耳を傾け、彼の作業を見詰め、そしてそれぞれが持てる技術や能力を惜しみなく駆使して蔡のヴィジョンの実現をめざしていく。一人の人間の想像力を媒介として、ひとつの物語を作り上げ、そしてそれを共有する喜び―ここから地平線プロジェクトは始まった」

ホルストの「木星」

 10月、蔡が単身いわきにやってきた。いよいよ作品にする素材探しである。志賀は、朝起きると自分の会社とは別 方向の、蔡のアトリエに向かった。蔡のアトリエは高台にあった。家の前まで車が入れないので、志賀は下に車を付け、蔡が下りてくるのを、待つ。
 蔡は、滑りそうになりながら坂を下り、志賀の車に乗り込んだ。あいさつ回り、作品にする廃船を探すこと…。やることは山ほどあった。そして、志賀の車の中には、いつも同じ曲が流れていた。ホルストの「木星」。蔡の耳の奥には、今も耳の奥で響いている。それは「壮大なる旅の寂しさの勇気を持ち、現代美術と無縁なみんなと一緒に未知の世界を探検したような」そんな気分なのだという。

(この項つづく=敬称略)

8. 廃船探し


1994年2月、蔡と志賀は小名浜水産高校近くの
砂浜で埋もれている北洋サケマス船と出会った

 1993年10月、蔡國強と志賀忠重は廃船を探していた。蔡が作品制作に使うという。蔡が住んでいた家から一番近い四倉港へ行くと、船首部分が切り離された手ごろな木造漁船があった。蔡は「ほしい」という。志賀が持ち主である造船所へ行き、ただで譲ってもらえることになった。2人に安堵感が広がった。

燃やされた船首

  ところが年が明けた2月、いよいよ作品制作の段になったので現場に行ってみると、本体はあるのだが、切り離された船首部分がない。2人は焦った。近くにいた人に聞くと「邪魔になるから燃やしてしまった」という。それを蔡に伝えると、がっくりと肩を落とした。あまりの落胆ぶりに志賀が「大丈夫ですよ。なくなってしまったのは残念だけれど、考えようによっては良い素材を見つけられるチャンスでもあるわけですから」と励ますと、「それじゃ、これから探しましょう」と言う。すぐ、7つの漁港を回ってくまなく探したが、適当な廃船を見つけることはできなかった。
 最後に行った小名浜港。港のすぐ近くで志賀の同級生である佐藤進が潜水会社を経営していた。ふと、あいさつに寄って蔡を紹介しようと、思った。事のてんまつを話し、「どこかに廃船はないだろうか」と尋ねると、「廃船なら小名浜水産高校(現いわき海星高校)前の砂浜にいくらでも埋まってる」と言う。蔡の表情が輝き、「すぐ行ってみましょう」ということになった。すでに午後7時を過ぎており、外は真っ暗。3人は懐中電灯を手に5分ほど車を走らせて砂浜に到着した。車を降りて砂浜を歩くと、砂に深く埋もれた廃船が3艘あった。「これ、これですよ。僕がほしかったのは、これです」。蔡が興奮して叫んでいる。その姿を見て、志賀はホッと肩の荷を下ろした。船首部分が燃やされてしまったことに、責任を感じていたのだ。「よかった」と思った。

ある心配

 2人はルンルン気分で四倉にある蔡のアトリエに戻った。ところが途中から雨が降り出し、風が強くなった。なぜか蔡が落ち着かない。そして言った。「志賀さん、波で船が流れてしまいませんか。心配です」。何十年もの間、砂に埋もれている船である。流されることなどあるはずがなかった。船首部分なくなってしまったことも、影響したのだろう。蔡がさかんに心配している。そこで志賀は、船をロープで固定しましょう、と提案した。2人は、30分かけて再び船のある場所へ戻り、ロープで固定する作業を行った。すでに波は荒くなっていた。カッパを着込み、廃船の一部にロープをかけて1センチの太さのロープを消波ブロックにつないだ。まるで象を糸でつなぐようなものだった。しかし2人は、できることをきちんとやった、という思いが胸一杯に広がり満足だった。

船の墓場

 蔡が一目惚れした廃船は、北洋サケマス船。志賀によると、エンジンや油をきれいに取り去り、木の部分だけを残して不法投棄された船なのだという。かつては、使い物にならなくなった船は、そうして海に流した。海流の関係だろうか。不思議に、その砂浜に打ち上げられ、月日がたつにしたがって木は朽ち果 て、船体は深く砂に埋もれていった。だれも好きこのんで船を掘り出すわけはなく、船の数は増えていった。そこは、明らかに船の墓場だった。海の男たちを乗せて北洋の荒海を航海し、サケマスを取り続けた船たち。それが役目を終え、砂浜で横たわっている。
 蔡は「これだ」と思った。いわきを表現するには願ってもない素材だった。その文化や歴史、さらに魂のようなものを表現したいと思った。蔡の頭の中をさまざまな具体的なイメージがぐるぐるぐると激しく巡っていた。いよいよ作品制作に動き始める時期になった。

(この項つづく=敬称略)

9. 廃船引き揚げ


クレーン車で揚げようとしたがどうしても揚がらず北洋サケマス船は
ブルトーザーで引っ張られ、解体して倉庫に運ばれた

 蔡の性格は大陸的だ、という人が多い。ひと言で言えばおおらか。どんなに追い込まれても切れない。失敗したらどうしよう、とも思わない。批判されても落ち込まない。それを良い方に転換する。実に魅力的な人間だというのだ。だから引き込まれる。
 例えば、地平線プロジェクトに補助金が200万円付いた。失敗したらパァー。事務方はやきもきした。でも蔡はちっとも心配しない。「かりに失敗してもそれはそれで作品なんですよ」とけろっとして言う。「海に火を走らせる、それは環境汚染だろう」と言われた。それに対しても「その人もプロジェクトの参加者ですね。反対する人もいないとだめなんですよ」と、逆にスタッフを励ました。だから、みんな気分良く作業を続けた。

ボランティア

 いよいよ、砂浜に埋まっている廃船を掘り出す作業が行われることになった。志賀忠重が蔡と一緒に土建会社や重機会社を回り、予算がないことを告げて何とかボランティアでやってくれないか、お願いした。深く埋まっている船を掘り出し、それを道路の近くまで運ぶ、さらにそれをバラバラにして保管場所の小名浜海陸運送の倉庫まで持って行く、というもの。それは、まともなら莫大な費用がかかる作業といえた。
 しかし現実的には、廃船のありかを教えてくれた潜水業者の佐藤進の口利きが功を奏して、実にスムーズに交渉が進んだ。志賀が趣旨をていねいに説明し、予算がないことを告げると、「わがったわがった、まがしておぎなって」と言った。会う人会う人そうだった。中にはボランティアの意味をわからず、「はいよ」と言ってしまったあと、そばにいた社員に「とごろでボランティアって何だ」と尋ね、「なに言ってんですか。ただでやってあげることですよ」と言われる社長もいた。すると「言っちゃったんだも、しゃんめ。やってやっぺ」と言った。
 志賀は頭が下がる思いだった。そして必ず「お手数かけますがよろしくお願いします」と心を込めて言った。外に出ると蔡が「さっき言っていた言葉を教えてください」と言う。志賀が日本語の堪能な蔡に教えた言葉が、そのお礼と感謝の言葉だった。その後、協力依頼に歩くたびに、2人は声を合わせ、感謝の気持ちを込めて「お手数かけますがよろしくお願いします」と言うのが決まりになった。

貪欲に教わる

 蔡という人は、教わることを恥と思わないところがある。自分が知りたいことは貪欲に質問し、自分のものにした。だから、教えを乞う人にはそれこそ何でも教えた。酒の席だった。乾杯の音頭をとった出席者が「みなさんの隆盛を祈って」と言うと、すかさず蔡が「リュウセイって何ですか」と聞いた。さらに、隣に座った花火を撮っているカメラマンが花火について質問した。蔡はそれこそていねいに、しかも良心的に、自分の知っていることを語り続けたのだった。

2日がかり

 掘り出し作業当日。バックホーやクレーン車、ブルトーザーなどが用意された。仕事の合間を見ての期日設定。なんとか1日で引き揚げ作業を完了しなければならなかった。しかし、作業は難航した。深く埋まった船は巨大だった。しかも、船体に使われているケヤキの木がかなり朽ちていた。掘れば掘るほど海水が出た。クレーンで上に揚げようとすると、船体がきしんでバラバラになりそうになった。「だめだだめだ」。男たちの大きな声が海岸一帯に響き渡った。「押して動かすしかねえんでねえが」。「うん、引っぱっぺ」。ブルに縄をかけ、道路近くまで引くことにした。作業は予定の時間を軽くオーバーし、2日がかりになった。
 やっと道路近くまで持ってきた船を、切断してバラバラにした。それをクレーンで根気よくダンプに積み、倉庫に運んだ。どの顔も輝いていた。満足感でいっぱいだった。志賀は、一人ひとりの顔をぐるりと見渡しながら、「みんなが気分良くやれてよかった」と心底思った。

(この項つづく=敬称略)

10. 廃船の解体


小名浜海陸運送の倉庫に運び込まれ、板が外される廃船

 1本のビデオが手元にある。NHKが制作した列島リレードキュメント「キャンバスは地球」。わずか15分の番組だが、蔡國強の「地平線プロジェクト」を準備段階からきちんと追いかけている。そこに船大工の鈴木愛蔵(当時71歳)が出てくる。愛蔵はその中で「いやぁ、夢をもう一度、ちゅう感じだったねぇ。夢がら醒めさせでもらった、つうが、起ごしてもらったような気がしだよう」と、にこやかに話している。

ある船大工

 廃船が砂浜から小名浜海陸運送の倉庫に運ばれた。とはいっても、それで終わりではなかった。まだ難題が山積していた。蔡は、廃船の表面 に張られていた板をはがして、骨組みだけにしたいと思っていた。さらに、外した板で「三丈の塔」を作る構想が固まっており、「美術館での展示方法」が大きな問題だった。
 全長13.5メートル、高さ5メートル、幅5.5メートル。この巨大な船をどうばらして、いわき市立美術館内の展示室まで運び、組み立てるのか―。それにはプロが必要だ。
 志賀忠重は、かつて木造船が主流だったころに船大工をしていた愛蔵を紹介してもらい、例によって蔡と一緒に愛蔵宅を訪ねた。
 愛蔵は二人をにこやかに迎え、自分が設計して施工した北洋サケマス船の図面 を披露した。そして「今、船は鉄か合成樹脂。木のころのごど、知ってるものはそういねえべねぇ。いいよ、やってみっから」と言った。

無力感

 船の解体が始まった。愛蔵の指示を受け、実行会のメンバーが大きなハンマーやバールを振るい、厚さが5センチ以上もある板をはがしていった。どうしてもはがれないところは、チェーンソーを持ち出し切断した。作業はきつかった。さまざまな人が入れ替わり立ち替わり手伝いにきてくれるのだが、掌は豆だらけになり、夕方には全員ぐったりとして、声を出すこともできなかった。
 廃船の掘り起こしから引き揚げ、解体という一連の作業の中で、蔡は自らの無力感を感じていた。そして言った。「今の主役はみんなです。僕は何もできない。ただのボランティア。本当にありがたいですね」と、みんなの頑張りに心から感謝した。
 元気なのは愛蔵だった。「いいがい、木には木の癖っつうものがあんだわ。そして船のかたちも独特だっぺ。左右に振られっかんね」と、とまどう蔡に説明し、叱咤激励した。

呉の水餃子

 実行会のいいところ、それは楽しみを持ちながら作業をする努力を惜しまなかったことだった。大変なのはわかっている。しかしそれが、変にむきになったり、無理をするようになると、気持ちがぎくしゃくするし、事故につながる。だから、みんな気分良く、楽しくやろう。そして最後にみんなで喜びを分かち合おう。志賀はそんなスタンスを貫きたいと思っていた。
 蔡のプロジェクトは終わってしまうと、記録に残りにくいところがあるので、志賀はスタート時点からビデオと写 真で丹念に記録をとった。それは、みんなの気持ちを思い出として残し、ビデオなどを見ながら茶飲み話をしたい、という発想からだった。
 解体作業中も、みんなで昼食やお茶の時間を持ち、和気あいあいと過ごした。一番寒い季節だった。底冷えのする倉庫の中で手はかじかみ、感覚さえなかった。でも、昼食やお茶の時間になると、食事係が心を込めてあつあつの豚汁や甘酒を用意した。蔡夫人の呉紅虹も本場の水餃子を作った。みんなの気持ちが一つになった。志賀は書いている。「呉さんが作ってくれた水餃子の味は今も忘れられない。楽しいことがあるから頑張れる、それをみんなと共有できるから長続きするのだ」
 廃船は板をすべて外され、骨組みだけになった。そして五つに分割され、美術館に搬入できる見通 しが立った。作業を終え、愛蔵が言った。「木造船にかかわったのは25年ぶりだったけんとも、体はちゃんと覚えてるんだねぇ。もう70の坂も越えたし、これが最後の思いでだっぺな。忘れていた船のごど思い出させでもらって感謝してるよ」

(この項つづく=敬称略)

11. 難題


プロジェクト実行に向けた作業が佳境を迎え実行会のメンバーがすべき仕事は山ほどあった

 「作品というのは生きものですから。変わるのが当然なんですよ。変わらない方が不自然なんです。社会そのものは変わっているわけですから」

(蔡國強)

 蔡のゴールに向けた作業が佳境を迎えようとしていた。歩を進めるたびに出てくる新たな発想、さらにそれを阻む世の中の常識。相変わらず問題は山積していた。
 蔡と実行会が行ってきた作業は海に光を走らせる地平線プロジェクトと市立美術館の蔡の個展「環太平洋から」が終わってしまえば、完結するはずだった。かかわり合った人たちにとって、なぜかそこがゴールには思えなかった。やっとスタートラインに立つような、そんな気分がみんなを支配していた。「終わることが寂しい」。正直そんな気持ちだったのかも知れない。メンバーたちは、それほど何かに突き動かされていた。
 実行会の仕事は山ほどあった。船をバラバラにして美術館内に運ぶめどが立つと、地平線プロジェクトの導火線づくりをしなければならなかった。はじめの予定では沖合二・五キロに十メートルの光の帯を走らせる、という計画だった。蔡は次々とアイディアを出し、その意味づけをした。それを実行するのがスタッフの仕事になった。藤田忠平が、志賀忠重が、佐藤進が知恵を絞った。
 まず導火線を用意し、ゴボウなどの野菜を入れる細長いビニール袋で包み、十五メートルのものをガムテープでつないでいく。はじめ導火線を三本仕込みテストをしたが、だめだった。火力が弱いうえに水が漏れて消えてしまう。次に導火線を倍の六本にし、ビニールを二重にしてみた。すると大丈夫のようだった。ただ、予算が軽くオーバーした。やむなく十キロの計画を半分の五キロに変更した。蔡にとって、火が走る距離が十キロであろうと五キロであろうと、さほど重要ではなかった。一番大事なのはみんなで喜びを共有し、物語をつくることだった。
 蔡の発想はまともに社会とぶつかった。砂浜から掘り出した船の下に塩を敷きたいというのだ。さらに船からはがした板を使って三丈の塔をつくり、それで、美術館のシンボルともいえるヘンリー・ムーアの像をすっぽりと覆いたい、と言う。美術館は正直、頭を抱えた。
 塩の量は十トン。なんと大型ダンプ一台分。それがどのくらいの値段で手に入るのか、かいもく見当がつかない。志賀は塩探しに奔走した。まず蔡を連れて小名浜へ向かい岩塩を見せると、蔡は「キラキラしていなければだめだ」と言う。その足で小名浜海陸運送に寄ってみると、海水で塩をつくっている会社が小名浜にあることを知った。
 新日本ソルト。さまざまな経過をたどりながら、塩は無償提供されることになった。しかし、美術館に直接塩を敷くことはできない。高価な美術品にとって塩は大敵であり、エアコンに入り込んでしまえば、館そのものが使えなくなってしまう。行き詰まった、と思った瞬間、「ビニールに包みましょう」と蔡が言い出した。塩の中に魚を入れ、それを手ごろな大きさのビニールでラッピングし、船の下に敷くのだという。
 そして三丈の塔。蔡は、美術館側の「それはできない」という返事を受け、三つの塔を重ねるのではなく、美術館の前にバラバラに置くことにした。すると不思議なことに、視線が三つの塔に引き寄せられ、ヘンリー・ムーアの像が視界から消えた。
 平野明彦は書いている。
 「蔡のプロジェクトは様々な矛盾と混乱を内部に保留したまま進行していく。それは一つ一つ整然と筋道に従い物事を積み上げていくスタイルとはまるで程遠いもので、様々な異分子さえもプロジェクトを成立させるに必要な要素として扱われる。蔡において矛盾は矛盾として肯定され、混乱が生み出す秩序でさえそれは世界にとっての必然となりえる。

(中略)

 蔡のプロジェクトは、美術のまわりくどい言説が入り込む余地がないほど直接的で劇的な意識の解放を人々にもたらす。そして解放された意識は、時空を超え、それぞれの精神の遙かなる深みに達していくのである」

(この項つづく=敬称略)

12. コンセプト


いよいよ個展の開幕が迫り実行会のメンバーたちは
ほとんどが徹夜に近い状態で作業を続けていた

 平成6年(1994)3月6日、いわき市立美術館で蔡國強の個展「環太平より」が始まった。海に火を走らせて地球の輪郭を描くと同時に外星人にメッセージを送る「地平線プロジェクト」も、その日の夜に実行する予定だった。
 実行会のメンバーはほとんどが徹夜に近い状態でこの日を迎えた。美術館の展示と地平線プロジェクトの準備。それは並大抵の作業ではなかった。あの、砂浜に埋まっていた廃船を分割して美術館内に運び込み、骨組みを再現して作品として展示する。その下にビニール袋にラッピングされた塩を敷き詰める。廃船からはがした板で三丈の塔をつくる。さらに、地平線プロジェクトのための導火線を用意する。そのすべてが3三月六日の個展初日と、その日の夜のプロジェクトに向けて行われていた。「できるんだろうか」と思ってもやるしかない。どれも気の遠くなる作業ばかりだった。
 しかし、全員が黙々と作業をこなした。「ここの人々と一緒に時代の物語をつくる」という蔡のコンセプトが、メンバー一人ひとりにきちんと浸透し、機能している証拠だった。それは、取材をしていた報道カメラマンが思わず作業を手伝ってしまった、というエピソード一つをとっても、明らかだった。プロジェクトに関わった人すべてが何か大きな力のようなものに巻き込まれ、精神を突き動かされて、ワクワクしながらゴールをめざした。
 美術館に廃船の骨組みが展示された。蔡はその作品を「迴光―龍骨」と名づけた。迴光とはアトリエから毎日眺めていた太平洋の朝焼けの光(逆光)。と同時に過去をよみがえらせる光を意味しており、過去の遺物である廃船が光に包まれて現実によみがえったのだという。それは圧倒的な存在感を示していた。そして船の板でつくられた三丈の塔。西洋の象徴ともいえるヘンリー・ムーアの彫刻を東洋の象徴ともいえる廃船の板でつくった蔡の塔で覆う、という計画は実現できなかったが、船の出入りを見守るものとして、美術館前に重ねず3個バラバラに置かれたのだった。
 個展初日だったのか、前日のオープニングパーティー前だったのか。蔡はカッターナイフを滑らし、指を切った。志賀忠重が書いている。
 蔡は個展で唯一できていなかった段ボール作品「子供の為の作品」づくりに没頭していた。そんな姿を見て、志賀はイライラが募っていた。協力してくれたみんなが続々と集まって来ている。だと言うのに蔡は作品づくりに夢中だ。ついに志賀が切り出した。「もうそろそろやめたらどうですか。今はきちんと応対することの方が大事です。作品を作るよりそちらを優先した方がいいと思います」。蔡は志賀の不満を感じながらも、「わかりました」となま返事をしていた。そんな時、カッターを滑らせ指を切ってしまったのだった。
 志賀は一瞬、息が止まりそうになった。しかも、そのけがはプロジェクトの準備の中で初めてのものだった。志賀はいつも「無理をしないように」と口癖のように言っていた。
 「はっ」と思ったら、蔡が言った。「無理をするとケガをする」。それはまさしく志賀が言い続けた言葉だった。2人は顔を合わせて笑った。
 その日、海岸線は風が強く、波も高かった。実行会はプロジェクトの1日延期を決断した。広報車が延期を知らせるため市内を巡った。

(この項つづく=敬称略)

13. 火の籠


導火線に火がつけられると火は60~70センチもの火柱を上げ、
バリバリという音とともに水面 を走った

 その日はベタ凪だった。「もしきょうもだめだったらどうしよう」と思っていたスタッフは胸をなで下ろした。
 平成6年(1994)の3月7日夕、陸から2・5キロ沖合の太平洋に五キロにわたって火を走らせる「地平線プロジェクト」が行われた。
 前日、台船に導火線などを積み込み準備をし、出港しようとしていたら「待った」がかかった。ぎりぎりまで実施の方向で検討していたが、沖の波が高く、海上保安部が決断を下したのだった。それは夕方近くで、延期をどう知らせるかで混乱した。結局、警察などが協力し、海岸一帯をスピーカーで知らせた。東京から来ていた美術関係者などは日程の都合がつかず、そのまま帰る人も多かった。

 実は、プロジェクト実施まではさまざまな試行錯誤や問題があった。まず、「今回のプロジェクトは人間の身勝手だ。魚をはじめとする生態系を崩す。環境をどう考えているのか」、といった内容の怪文書が各漁協などに送られた。一部では、「こういうことを考える人がいるのは困る。手放しでは賛成できない」という声も出た。しかし最終的には、プロジェクトの趣旨を説明し、海には残骸は残さない、ということで了承を得た。
 そんな時も蔡は冷静で、楽観的だった。困り顔のスタッフを見て「反対者も参加者です。大事にした方がいいですよ」と、つるりとした顔をして言った。
 もう一つ。当初の計画では、「地球の輪郭を描く」というコンセプトから沖合約7キロの地点10キロにわたって、火を走らせる予定だった。しかし、遠すぎて見えないうえに、導火線が三本では、勢いが出なかった。火が消えてしまう恐れも出てきた。予算の関係もあって、導火線を六本にすることにし、距離を半分の五キロにした。あとは、成功を神に祈るだけだった。これが失敗すると、補助金が出なくなる。スタッフや市関係者は気が気ではなかったが、蔡はまたも「失敗はつきものです。それでもいいんです」とにこやかに言うのだった。
 その日は月のでない新月だった。火の光が際立つように、とみんなで考えた。台船が2隻、さらに小さい船数隻で5キロの導火線を張った。蔡と志賀忠重は点火する側の台船に乗り込んでいた。藤田忠平は本部がある陸に陣取り、甘酒などを振る舞い、今か今かと待っていた。陸と海をつないでいたのはトランシーバーだった。
 午後6時38分。すっかり暗くなっていた海岸一帯には5000人ものギャラリーが集まってきていた。「点火!」の声とともに導火線に火がつけられた。すると、火は60~70センチもの火柱を上げ、バリバリという音とともに水面 を走った。至近距離で見ていた平野明彦によると、それは「あたかも一匹の龍が頭をわずかにもたげ、海上を自在にくねりながら爆走していく姿」のようだったという。その火の龍は、点火した台船から離れるにつれ弱まり、その姿は波間に消えながら遙か彼方に消えていった。
 蔡たちの心配は、「途中で消えないか」という1点に移った。
 一方、陸で見守っていた藤田には、その火がキツネの嫁入りの光のようにしか見えなかった。ぽあぽあといった光がゆっくりと波間を進んでいく。それが時には途切れる。しかしまた、弱い光が見える。それは懐かしい光だった。
 2分後。ゴールの四倉側台船から「火が到着しました。最後まで来ましたよ」との一報がもたらされた。みんなが抱き合って、その成功を喜んだ。感想を聞かれた蔡は「私におおめでとうじゃなくて、いわきの人におめでとうです」と言った。

 「もし火が消えたら、逆側から点火しよう」。志賀はそう決意していた。スタッフのだれもが「途中で火が消える不安」を抱えていた。それだけに、その成功には、参加したものでなければわからない特別 の思いがあった。だから、蔡のひと言に全員が感激した。
 「心が洗われるような蔡さんの言葉だった。みんなの心をつなぐ言葉だった」と志賀が当時を振り返って言った。

(この項つづく=敬称略)

14. 響き合い


蔡と真木が協力して作った菊茶用の陶器(左)
以来二人の交流はより深くなり今も続いている

 「蔡國強は、世界の美術界をヒマラヤ連山に例えると、その中でも飛び抜けた存在です。スケールが全然違う。蔡さんと会うたびにそれを感じます」。真木孝成は、真摯な目をしてそう言った。
 蔡と真木の出会いは、地平線プロジェクトといわき市立美術館での個展を準備しているときだった。藤田忠平が経営している画廊で蔡の作品を見たことはあった。しかしさほど気にも止めないでいた。そうしているうちに、プロジェクトの話が持ち上がり、蔡が滞在しているアトリエの庭で栽培した菊を煎じて飲む菊茶の器を、四倉の畑の土で作ろう、ということになった。そこで、藤田と知己がある、陶芸家の真木のところに話が来たのだった。
 真木は、そのころインドから帰って来たあとで、「余計なことにはかかわりたくない」という思いが強かった。ボランティアというのも基本的にはいやだった。藤田や志賀忠重が蔡を巡るプロジェクトにかかわっているのを横目で見ながら、静観の構えを貫いていた。しかし、話が来ればむげにも出来なかった。仕方なく蔡と会うことになり、ほんの数分、蔡と話しただけで蔡の魅力にとりつかれ、プロジェクトを手伝うことになった。それはアーティスト同士の感性の響き合いであると同時に、人間同士の直感のようなものでもあった。
 「それがね、『ボランティアなんてうそっぽい』って思っていた自分の気持ちが、蔡さんと話していたら、その十分か十五分後には、『そんなことどうでもいいや』って思っていたんですよ」。真木が述懐した。
 蔡は、あくまで畑の土を使いたがった。お茶を入れる土瓶、さらにそれを飲ませる湯飲み、そして焼き物を乗せる板さえも、「畑の土で形を作り焼きましょう」と言った。しかし、その細長い板を真木の窯で焼くには、二枚ずつ八回焼かなければならなかった。真木は「型を作ってその中に土を入れたらどうですか」と提案した。すると、蔡は「じゃぁ、そうしましょう」と了承した。さらに、土瓶や湯飲みの制作が始まった。真木はてっきり蔡が作るものだと思っていた。「自分はあくまで手伝いだ。アドバイスを送り、蔡が作ったものを焼いてやればいいんだろう」程度にしか思っていなかった。
 すると、蔡が例によってツルリと言った。「真木さん作ってみてください」。何となく、おずおずと作ってみると「いいです。それでいいですから。真木さん、そのまま作ってください」と蔡が言う。そんな調子でだんだん引き込まれ、「畑の土だけでは耐火性がないので、陶器用の粘土も混ぜましょう」などと指導をしながらも、最終的には、ほとんどを自分がすることになった。
 真木は蔡とつきあえばつきあうほど、「創造は無限であり、蔡という人間は与えられたポジションですべての能力を発揮する」ということを実感した。そして、かかわり合うことに喜びを感じるようになった。
 こんなことがあった。蔡が言った。「真木さん、また一緒にやりましょう」。すると、真木は軽い気持ちで返した。「それはお金になるの?」。すると蔡が、にこやかな表情を浮かべながら、さらっと言った。「アーティストはお金のことを考えてはいけません」。真木は「アイタタ」と思った。蔡に一本とられたのだ。「そういう人と知り合えたことが嬉しかったね」。真木が苦笑いしながら話してくれた。
 二年ほど前のことだろうか。真木は「アートではどういうものがいいですか?」と蔡に尋ねたことがある。すると蔡は「初めて見るものできれいなものがいい」と言った。芸術は時代時代で変容する。そうした中で、蔡は「きれい」という使い古された言葉を使いながらも、「きれいというのは美術の最低条件であり、人間の知恵を超えているもの。例えば、紙の上で火薬を発火させる。すると炎が現れる。炎は人間の知恵を超えている。それをきれいと言う」と言った。蔡は暗に「芸術というのは計算通 りに行かないもの、計算通りに行かないからこそおもしろくてきれいなんだ」と、自らの理念をさりげなく示したのだった。

(この項つづく=敬称略)

15. 九十九の塔


蔡達はいわきを離れてしまった「三丈の塔」(右下)の代わりに
「いわき九十九の塔」(左上)を作った

 平成6年(1994)3月31日、蔡國強が公立美術館で行った初めての個展「環太平洋より」が終わった。ただ問題が残った。蔡と実行会が協力して砂浜から掘り出した廃船の行方だった。
 廃船は蔡によって2つの作品に生まれ変わっていた。1つは骨組みだけを使って木造船の美しいフォルムを浮かび上がらせた「迴光―龍骨」。そしてもう一つが廃船に張られていた板を使ってつくった「三丈の塔」。蔡は板をはがすとき、実行会のメンバーに「1つのかけらも棄てないでください。取っておいてください」と指示している。蔡にとって、その2つの作品は、みんなの協力のたまものであり、今回のプロジェクトと個展を象徴する作品といえた。
 20年もの間、砂浜で眠っていた北洋サケマス船を呼び起こし、みんなの協力を得て掘り起こして2つの作品としてよみがえらせた。それは、みんなの力であり、いわきの力でもあった。プロジェクトも個展も、その作品も、いわきでなければあり得なかった。蔡はその作品の1つひとつが、いわきで生まれ、いわきで育ち、いわきで朽ちていくべきだと思った。しかし、そうは行かなかった。
 まず、「迴光―龍骨」は市の配慮で小名浜・三崎公園内に設置されることが決まった。しかし、3段に立てると9メートル99センチにもなる「三丈の塔」は宙に浮いたままになった。実行会は仕方なく、それを保管することになった。「三丈の塔」は藤田忠平が住む北茨城の山に雨ざらしになって眠ることになった。10とか100になると完結してしまうが九とか99は永遠。塔にはそんな意味が込められていた。だから「永遠にいわきにあるべき三丈の塔がいわきに置けない」という現実は、蔡を落胆させた。
 しかし、「三丈の塔」は死ななかった。東京都現代美術館に出品し、3段重ねのあるべき姿で展示したあと、ベニスビエンナーレ、ヒューストン、リヨン、ベルギーのゲントなど世界のモダンアートミュージアムを巡回し、ギリシャの現代美術財団に買い取られた。いわきで生まれた塔は、世界を巡り、遠いギリシャに永住の地を得たのだった。
 志賀忠重にはこんな思い出がある。東京都現代美術館で三丈の塔を展示していたときのことだった。蔡は、まだ残っていた船の板を持ち込んでいた。蔡が言った。「志賀さん、その板で椅子をつくってくれませんか」。びっくりする志賀に、「簡単ですよ。まずどんなものを作るかを、全体を考えるんです。次に縦横の比率、その次は自分好きに、独創性を入れるんです。最後は調整です。客観的に見るんです」とつるりと言った。
 志賀は言われた通りに作ると、それは涼み台のような椅子になった。すると蔡は「いいです。それでいいです」と言い、にっこりほほえんだ。どうも、空間の中でのバランスを重視し、何かがほしいと考えたらしかった。志賀の椅子は三丈の塔と一緒に堂々と、東京都現代美術館に展示された。
 地平線プロジェクトから五年後の平成11年(1999)、志賀と藤田と真木孝成は、蔡國強が九十九の塔をつくる「いわき九十九の塔」というプロジェクトを企画した。蔡が「20世紀の僕の代表的な立体作品」と公言してはばからない「三丈の塔」がいわきを離れてしまった今、それに代わるものをつくり、かたちとして残そう、という思いからだった。
 まず蔡がスケッチする。さらに参加者が真木の用意した土で塔をつくる。それを蔡が手を入れて、真木が焼く。そんな手順だった。「1999年に九十九の塔をつくる」。それは、蔡と実行会との永遠のつながりを意味していた。
 参加者は約30人。みんな一生懸命つくった。そして蔡は、無邪気な心と目を持っている人の作品を絶賛した。逆に変に絵心があり芸術の常識を持っている人の作品をかなり手直しした。そして、蔡がさっと手を入れると一つひとつの塔は輝き出し、まぎれもなく蔡の作品になった。「それが何とも不思議でしたね」。真木が述懐した。
 蔡は言っている。「みんなが力を合わせればできるんです。そして、一生懸命つくったものは残ります。それは立派な芸術作品です」

(この項つづく=敬称略)

16. 苦悩


昨年再会した蔡(左)と志賀 二人の間には深い信頼がある
右上スケッチはポーランドでの個展のためのもの

 この10年の間に、蔡は世界的に著名な現代美術作家になった。さまざまなイベントで蔡に火薬を使ったプロジェクトの依頼が来る。蔡はイメージをかたちにし、スタッフに伝える。スタッフは、それを実現するために最高の環境を用意する。それは、いわきで実現した地平線プロジェクトとは180度も意味が違うものだった。

 「この土地で作品を育てる/ここから宇宙と対話する/ここの人々と一緒に時代の物語をつくる」―このコンセプトは、「なんかおもしろそうだね」と思った人たちが自分でできることをしてかかわり、みんなで達成感をあじわう、というものだった。みんなで知恵を出し合い、力を合わせて蔡のイメージを具現化した。困難を共有したからこそ、達成感や充実感が大きかった。それは蔡も同じだった。
 しかし、蔡の名前が売れれば売れるほど、プロジェクトは巨大化した。にもかかわらず作業はスムーズに運ぶようになった。蔡の中に、何とも言えない「心の飢え」のようなものが芽生え始めていた。そんなとき、ワルシャワのポーランド現代美術館から個展の依頼があった。打ち合わせのために、ワルシャワへ行くと、蔡のホテルの部屋さえ用意されておらず、美術館の一室に泊まる始末だった。蔡はポーランドという国を思った。たびたび隣国の歴史に翻弄され続けてきた東欧の小国。そして貧しい今の現実。蔡はそれを、同じ社会主義国の母国・中国と重ね合わせ、いわきでのプロジェクトとリンクできないか、と考えた。「過去の運命を見つめながら、次なる運命を開いていく希望の展覧会にしたい」。蔡の胸に、新たな情熱がわき上がってきた。

 たぶん、それは以前のようにフラットで気軽な発想だったのだろう。「今も埋まっている廃船を、いわきからの贈り物としてポーランドに送りたい。私といわきの人々でつくったとその物語を、今一度作品化したい。その作品の精神の象徴として、いわきの船を展示したい」と志賀忠重に持ちかけた。志賀はそれを受け、ちょうど蔡が来市した時に、いわき海星高校裏の船の墓場に案内して船を選んだ。
 志賀は、前と同じように掘り出しの準備に入った。船を砂から掘り出し、切断し、コンテナに入れてポーランドへ送る。作業をボランティアでやるとしても三百万かかることがわかった。「何とかやってやりたい」と志賀は思ったが、問題はその費用をどう捻出するか、だった。しかも、期日が迫っているというのに、蔡からは英文のFAXが届いただけだった。日本に七12時間滞在する、という情報が入り、成田空港あたりで打ち合わせができるかな、と思ったが、忙しくてそれもできないという。志賀の心の中に、何とも言えないもやもやが広がった。

 そんな時、志賀の携帯電話に蔡から電話が入った。1度目は留守電、2回目は直接話すことができた。
 蔡はこう言った。「いわきの人たちの負担や大変さを思い、申し訳ない、という気持ちでいっぱいになってしまったのです。引き上げ、解体、送り出しという作業を共有できないこと自体、後ろめたいですし、自分がいないのに資金を集めなければならない。その苦労を考え、気軽に『お願いします』と言えなくなってしまったんです。「やめる」というならやめられますから、みなさんで検討していただけますか。私の気持ちは志賀さんと同じです。みなさんに補足して伝えてください」。蔡の声は苦悩に満ちていた。

 志賀はメンバーを前に言った。「蔡さんに傲慢さはなかった。その言葉にはさまざまな配慮と感謝があった。どうする」。志賀を除く、6人のメンバーが語り始めた。

(この項つづく=敬称略)

17. 狂った予定


「いわきからの贈り物プロジェクト実行会」のメンバーたちは
淡々と廃船の掘り出し作業を続けた

 2月中旬の夜だった。議題は、蔡國強がポーランド・ワルシャワの現代美術館で行う作品展に、いわきから廃船を送るべきかどうか。予算は約300万強。いわき海星高校裏の砂浜に埋まっている廃船を掘り起こし、切断してコンテナに積み込む。しかも、それをポーランドに送る。以前に蔡から話しがあった時は、みんな「やるしかないだろう」という気持ちだったが、蔡が「忙しくて自分が立ち会えないし、申しわけない気持ちでいっぱい。やめるというならやめられます。みなさんで検討してください」と言ってきたのだ。リーダー役である志賀忠重が言った。「蔡さんの言葉に傲慢さはなかった。さまざまな感謝と配慮があった。さあ、みんなどうする」。

 「やりたい」。だれもがそう思っていた。いや、これまでのいきさつから言って、やらざるを得ない、という気持ちが強かった。しかし、300万円をどうするか、という部分で微妙なぶれが起こった。「単純に頭数で割ろう」という話になった時だった。確かにそうすれば話は一発で決まる。とは言っても、本当に七人で割ることができるのか。一番デリケートな問題だった。しかし、だれも「出せない」とは言わない。重苦しい空気が流れた。 そんな時、志賀が前回のプロジェクトには参加していなかったメンバーのひとりにやんわりと振った。「どんなもんだっぺ」。すると、そのメンバーはきちんと身の丈に合った言葉を吐いた。「はっきり言って自分には無理です」。それを聞いて志賀が言った。「そもそもこの会は、強制・強要はしないことが原則だ。しかも、無理はしない、という考え方がベースにある。できる範囲で協力するのが、この会の趣旨のはずだ」。みんな原点を思い出した。
 「苦しんでやっても楽しくないよね。前向きに楽しみながらやることを考えようよ」「おれはやりたい。この一週間のことは忘れているけれども、蔡さんとやってきたことは今でも鮮明に覚えている。これは思い出づくりなんだ」「携われるということで、もうわくわくしてるんだ」…。みんなからは肯定的な意見が相次いだ。しかし、やっぱり費用をどう捻出するのか、がネックになった。
 「蔡さんの作品図録やビデオを販売し、協賛を募る、というのはどうだろう。みんなで一生懸命歩いて、足りなかった時は、その分何らかのかたちで調達する。生み出せると思う。これは立て替えと考え、今回の廃船で造る作品が売れた時には、蔡さんに払ってもらおう。前貸しだ」。
 またも座長である志賀が助け船を出した。「じゃぁ、マスコミにも連絡して記事に扱ってもらおう」「さて、もう時間がないぞ、掘り出す段取りをつけないと」。みんなの目が輝き出した。そして、最後に志賀が言った。「一人でも『やめましょう』という人が出たらやめるつもりだった」。志賀の頭の中を「心はともにあります。ともにやっていきたい」という蔡の言葉が何回も駆けめぐった。

 志賀たちは「いわきからの贈り物プロジェクト実行会」を組織し、廃船を掘り起こして切断し、コンテナに詰めた。しかし、思わぬ 問題が持ち上がった。ポーランドの美術館が船の重さに耐えられない、というのだ。外に展示するにしても国の許可が必要だという。そうしているうちに、ワルシャワから、丁重な「お断りの手紙」が届いた。ところが廃船を欲しがっている団体がもう一つあった。スミソニアン博物館。秋に展示会を開くのだという。蔡はポーランドのあとにアメリカに持っていくつもりでいた。思わぬ ハプニングで廃船は直接、アメリカへ行くことになった。

(この項つづく=敬称略)

18. 10年後


蔡をめぐるいわきの人々の時代の物語は
それぞれの心の中で10年たった今も続いている

 あの地平線プロジェクトから10年がたった。その時、まず蔡國強がいた。そして藤田忠平がかかわり、志賀忠重が「なんかおもしろそうだね。やっぺやっぺ」と仲間に入り、さらに輪を大きくした。その様子を名和良が、小野一夫が記録した。あらためて、そのビデオや写真を見てみると、すでに鬼籍に入ってしまった人たちの姿が映し出されている。
 廃船引き上げに大きな力を発揮した佐藤進(潜水会社経営)は、「おやすみ」と床に入り、そのまま起きてこなかった。船大工の鈴木愛蔵は、目を輝かせながら、自ら設計し廃船になった船の解体・組み立てと取り組み、それが人生最後の仕事になった。そして、黙々と作業をこなした鈴木延枝は病に倒れ、帰らぬ 人となった。

 当時、ほとんど無名だった中国人アーティスト・蔡は、その後火薬によるさまざまなプロジェクトで世界的に有名なアーティストになった。「爆発というのは一瞬の快楽なんです。バーン、と爆発した瞬間に精神が浄化される。しかも計算が立たずに、メチャクチャになることが多い。それがいいんです」と蔡は言う。
 しかし、蔡の心の奥底には、いわきの人々と一緒に寝食をともにしたあのプロジェクトこそが、いつも心にあった。「ひとりのアーティストには限界がある。さまざまな人たちとかかわることで有限が無限に広がる」。その、蔡のポリシーを一つのかたちとして実現したのが、いわきでのプロジェクトだった。
 蔡のプロジェクトにスポンサーが付き、身辺が忙しくなり始めたころのことだ。蔡は藤田と志賀それぞれに「私のマネジメントメンバーに加わりませんか」と声をかけている。画廊を経営している藤田にとって、それは違和感のない仕事のはずだったが、彼は熟考の末、断った。「自分には、地元のアーティストたちがいる。それを放り出すわけにはいかない」というのが理由だった。
 さらに志賀。「志賀さん、私のマネージャーになりませんか」。そう蔡が言ったとき、志賀はただ笑うだけだった。返事をせず、心の中でつぶやいていた。「それは違いますよ、蔡さん」。志賀にとって、蔡との関係は人間同士のものであり、ビジネスではなかった。ある距離を保ちながら、このおおらかで人間性豊かな青年とつきあいたい、というのが、志賀の気持ちだった。

 蔡が筑波大の研究生だったころ、面倒をみていた河口龍夫は、蔡の今を祝福しながらも心配している一人だ。「さまざまなものを達成し、さらにオーダーが来る。もてはやされ、縛られる。彼がしたい、ということと周りが求めるものとのギャップ。そこにもてはやされる孤独が生まれる。そうした中で自分の芸術活動のスタンスをどこに置くのか…。蔡さんの中にはさまざまな葛藤が渦巻いていると思うんです」。河口は電話の向こうでそう言った。

 いわきでのプロジェクトがなぜできたのか。それは、何にも縛られないシンプルな人間関係があったからだった。金はなくとも思いがあった。そして、いわきの良さを最初に発見したのが蔡だった。蔡は言っている。「いわきって普通のところ。普通のまちが持っているいいところがすべてある。それを住んでいる人がわからないだけ」
 ここの人々と一緒に時代の物語をつくる―そう言って蔡は作業をスタートさせた。そして、かかわったメンバーは思う。「あの熱気があったからこそできた。あれは必然だった」

(敬称略=おわり)

番外:スミソニアンへ


 蔡國強はコミュニケーションと意外性を重視する。  夢を持ってやってきた日本。しかし、満足に自分の作品を見てもらうことすらできなかった。「焦っても仕方がない。いつか出番がやってくる」と思い、ただ横になって天井を見つめる日々を過ごした。そんな時、ある出会いがあり、少しずつではあるが人脈が広がった。蔡は、それらを大切に温めて、人生と作品を交わらせていく。その象徴がいわきとのつきあいで、それはみんなで1つの方向へ向かって行けばよかった。成功も失敗もなく、関わり合うことが一番重要だった。
 ポーランドへ行くはずだった廃船は、半年近く、小名浜港のコンテナヤードで眠った。当初は、ポーランドで何らかの作品にしたあと、アメリカ・ワシントンDCにある、スミソニアン美術館に回るはずだった。ところが、ポーランドから断られ、スミソニアンでの蔡の展覧会が始まる秋まで、預かってもらっていたのだ。そして秋、再び、「いわきからの贈り物プロジェクト実行会」が動き出した。
 いわき海星高校近くの砂浜に埋もれていた独航船。メンバーは、その10トン以上もある廃船を掘り起こし、6つに解体して、時が来るのを待った。それがやっと日の目を見ることになったのだ。主要メンバーが集合し、さらに細かく解体してコンテナに積み込む作業を行った。9月の初めのことだ。
 しかし、簡単にはいかなった。まず、船体を切断して、長さ12メートル、高さと幅が2.5メートルのコンテナ2個に分けて詰め込んだ。しめて約140万円。蔡が交渉してくれて、運賃と組み立て料程度は、スミソニアンが持ってくれる気配だが、台風が来て、思うように出荷できない。展覧会は10月23日からだ。それには、何日か前にはワシントンに到着しなければならない。組み立てて蔡が作品として手を加える時間が必要だ。船便で東海岸まで運ぶには40日はかかる。相手との連絡もままならず、メンバーはやきもきした。
 しかし、このハプニングさえも、蔡にとっては作品の1つなのだ。蔡が、いわきの廃船をもう一隻掘り起こしたい、と言った途端、そのプロジェクトはきちんと秒を刻み始め、関わった人々の一挙手一投足が理由づけされて、記録されるのだった。
 スミソニアン美術館は、スミソニアン博物館群のなかにある。見学はどこも無料で、スミソニアンという財閥が、「入場料を取らない」ことを理由に、寄付したのだという。蔡の作品は、その中のアジア現代美術のエリアに展示されるという。廃船が到着したら、すぐ日本からのボランティアスタッフが船体を組み立て、蔡が作品制作に入るのだという。
 結局、コンテナは東海岸に直行するのではなく、西海岸に揚げ、大陸横断鉄道で東へ運ぶことになった。新たな物語の誕生を願って。

(敬称略)

番外編:Traveler(旅人)


 「なんて大きいスケールなんだ。しかも美しい。これが本当に、あの、いわきの砂浜に埋まっていた廃船なんだろうか」―。藤田忠平は、その作品を見上げながら感慨無量 になった。そして、これまでの蔡國強とのさまざまな思い出が、走馬燈のように頭の中を駆けめぐった。

 今回の蔡の展覧会は、「トラベラー(旅人)」というタイトルがつけられている。それは中国、日本、アメリカと生活・活動の場を変えて作品を発表し続けている蔡自身にも当てはまるし、展示の核となっている、いわきからやって来た廃船だとも言える。
 この船は遠い昔、サケやマスを追って厳寒のオホーツクを縫うように走り回り、役目を終えて海に解き放たれた船だった。それが海流の関係でいわきの砂浜に打ち上げられ、静かに眠っていた。それを蔡國強という中国人アーティストが着目し、掘り起こして新しい命を吹き込んだのだった。それは、10年前に無名だった蔡に協力し、展覧会やイベントを開いてくれた、いわきの友人たちと蔡との友情の証といえた。
 船は、掘り起こされたうえに切断されて、コンテナに積まれた。当初はポーランドからアメリカのスミソニアンへ回る予定だったが、ポーランドの展覧会が中止になり、直接アメリカへ運ばれた。船便で海を渡って西海岸へ行き、アメリカ大陸を貨車で横断した。テロ対策で検査に時間がかかったこともあり、到着したのは開幕4日前だった。

 いわきから駆けつけた9人は夜通しで組み立てにかかり、蔡の指示を受けて作品制作に取りかかった。いわきでは、海を表現するのにラップに包んだ塩を使ったが、スミソニアンでは蔡の故郷・中国福建省から取り寄せた、白磁器の破片が使われた。その中には観音像を壊した破片も含まれており、祈りのようなものも表現された。

 展覧会が開かれているスミソニアン博物館群内は、ワシントンDCにある。町ができるときに、まず、このエリアの象徴ともいえる赤煉瓦の建物を造ったそうで、現在はリンカーン記念堂と国会議事堂の間の芝生公園(モール)の両側に16の美術館、博物館、動物園がある。国が直轄するスミソニアン財団の管理下にあり、イギリスの科学者ジェームス・スミソニアンの遺志に沿って寄付された資金をもとに財団が設立された。1846年のことだ。その収蔵品は1億6千万点を超えると言われており、どの施設も無料で公開されている。蔡の展覧会はサクラー両ギャラリーを使って行われており、来年の4月24日までというロングランだ。  

 蔡は展覧会のサブタイトルに「2003―2004 アンラッキーイヤー」とつけた。蔡にとって昨年から今年にかけては、不運なことが立て続けに起こった。企画が持ち込まれ、かなり準備が進んでいた、巨大プロジェクトがことごとく中止になったのだった。エッフェル塔の隣に火薬で同じ高さの塔を建てるイベントは、中国とフランスの国交50周年を記念して。さらに愛知万博、三菱地所…。図案まで示し、巨大な火の柱を立ち上がらせようとしたが、「爆発物は危険」など、さまざまな理由でボツになった。

 29日のレセプションであいさつに立った際は、今の自分のスタートがいわきであることを話した。「だから本当は10年目の節目の展覧会はいわきでやりたかった」と。一貫して蔡を支え続け、人間同士のつきあいをしてきた志賀忠重もあいさつに立ち、10年前の 思い出を話した。

 藤田は、そんな光景を見ながら、蔡と始めて会ったころのことを思い出していた。東京・板橋の4畳半一間の部屋、痩せこけているが目の奥に光があった中国人青年、そして魅力的な火薬画、油絵…。「トラベラー」。確かに自分たちは、蔡國強というスケールの大きい稀有なアーティストと時空を超えた旅をしているんだろう―。会場の隅でそんなことを思い浮かべていた。

(敬称略)

番外編:地球を旅する廃船


 志賀忠重は、蔡國強と会うたびに思う。
 「いわきで地平線プロジェクトをしたころとまったく変わらない。あのころのままだ。当時は無名、いまでは世界的に著名なアーティストになったというのに。だからこうして、つきあいが続いているのだろう」

 今年の春、蔡からメンバーのところに1枚のFAXが届いた。「カナダのモントリオール郊外にある、カナダ国立シャウィガン美術館でいわきの廃船を展示することになった。スミソニアン美術館の時と同じように、また協力してもらえないだろうか」。そんな内容だった。
 廃船は、蔡のたっての要望で、小名浜下神白のいわき海星高校前の砂浜から掘り出された。蔡には、いわきのメンバーとの友情を作品としてかたちにしたい、という思いがあり、その象徴が、いわきの砂浜に打ち上げられている廃船だった。当初は、ポーランドでの蔡の展覧会で使われるはずだったが、会場が廃船の重さに耐えられないことがわかり、しばらく小名浜港のコンテナヤードに眠っていた。その後、アメリカのワシントンD・Cにあるスミソニアン美術館に展示されることになり、解体されて海を渡った。
 この作業は、蔡と、かつて地平線プロジェクトを成功させた「いわきからの贈り物」メンバーとの友情の証と言えた。メンバーたちは、蔡に喜んでもらいたい一心でボランティアとして廃船を掘り出し、渡米。スミソニアンで廃船を組み立てた。蔡は、その船に、自らの生まれ故郷・福建省泉州の真っ白い磁器の破片を波に見立てて配し、「Traveler」(旅人)と名づけたのだった。
 それが2004年の10月から半年。展覧会終了後、役目を終えた廃船は再びニューヨークで眠りにつき、次の出番を待っていたが、今回の蔡のカナダでの展覧会で、またも蔡の手で命を吹き込まれることになる。
 船が作品としてよみがえるたびに、蔡はメンバーに組み立ててもらい、友情を確かめ合いたいと思った。それが、作品「Traveler」が存在する、真の意味と言えた。蔡のオーダーに異論があるはずはなかった。全員で行きたい、と思った。メンバーたちは口々に「蔡さんとの仕事は楽しい。みんなでモントリオールへ行こう」と確認し合い、10人でカナダへ飛んだのだった。

 メンバーたちは、6月3日に成田を発ち、廃船を組み立てて、オープニングセレモニーに出席した。その席で、志賀はこうスピーチした。
 「人と人との信頼は、地域を超え時代を超えても成り立つことを、蔡さんとのつきあいを通して確信しました。われわれの祖先が使った廃船と、中国泉州の磁器を使って蔡さんが作品にしました。そのうれしさと感動を、いわきに古くから伝わるじゃんがらのメロディーに乗せて、表現したいと思います」
 そして、じゃんがらのメロディーがカナダの地に鳴り響いた。

 蔡はいま、スタッフを7人使い、年間の経費が1億円必要な日々を送っている。それでも、スタッフが足りないのだという。志賀が展示を見ながらふと「スミソニアンのときよりきれいですね」と声をかけると、蔡が「良いアーティストは、同じ作品でも必ず前より良くなります」とうれしそうに言った。
 「次は北京で」が蔡とメンバーたちの合言葉。2008年7月の北京五輪。ビジュアルを任されている蔡の頭の中を、北京を舞台とした「いわきとの友情の物語」の新しいシナリオの構想が、静かに回っている。

(敬称略)

番外編:ニューヨークにて


 蔡國強がインタヴューで答えている。「13年前にいわきの人たちと協力して成功させた地平線プロジェクトは、決して忘れることのできないことです。あれは、いまの僕の原点とも言えます。実践することの聖域です」。場所は北京。その模様は、NHKの「迷宮美術館」で放映された。
 藤田忠平は、番組のチーフプロデューサー・櫛田晃の「当時の匂いが実感できる場所に行きたいのですが…」との申し出を快く引き受け、蔡が生活していた四倉の高台にある家に案内した。そこからは太平洋がよく見えた。ふと蔡が最初に示したコンセプトのなかの1つ、「ここの人々と一緒に時代の物語をつくる」という言葉がよみがえってきた。一緒に時代の物語をつくる作業は、いまも切れ目なく続いているのだった。

 11月のはじめ、志賀忠重は、空路ニューヨークへ向かった。「Traveler」と名づけられた廃船(いわきからの贈り物)が、蔡の個展でまた使われることになり、それに関する作業をしに行ったのだ。成田から13時間。さらに車で1時間かけて「サイスタジオ」に到着すると、夫人の呉紅虹がいつものエレガントな笑顔で迎えてくれた。蔡は来年8月に迫った北京五輪の準備が忙しいらしく北京へ行っているという。スタジオにはグッゲンハイム美術館の展示構想が一目でわかる立体模型が置いてあり、「こんな感じです。志賀さんには隠す必要がないので、どうぞ見ていってください」と呉が言った。
 廃船が展示されるのは、来年2月にグッゲンハイム美術館(ニューヨーク)で開かれる回顧展。7階建ての美術館すべてを使う大規模なもので、廃船は最上階に置かれるという。この美術館は1階から7階までぶっ通 しの吹き抜けや螺旋状の飾りがあり、展示が大変な分、面白味もある。今回の志賀の仕事は廃船をエレベーターに乗せられるよう、どこを切り刻むか指示をすること。「美しく組み立てられるようにしてくださいね。お願いしますよ」と蔡から全権を委任された。
 作業場はニューヨークのダウンタウンから1時間ほど離れた郊外にあり、エレベーターの広さの木枠を造って、現地スタッフと一緒に慎重に進められた。作業は順調に進み、ほぼ1日で終了した。蔡にとって、グッゲンハイム美術館での回顧展の意味がいかに大きいか、志賀はその意気込みを肌で感じた。そして「来年が楽しみだ」と思った。

 廃船「Traveler」は、いわきの人々の手で小名浜下神白の砂浜から引き上げられ、コンテナで海を渡って、アメリカ・ワシントンD.Cのスミソニアン美術館、カナダの国立シャウィガン美術館に展示され、来年2月にはニューヨークのグッゲンハイム美術館の7階に展示されることになった。志賀は廃船の作業に駆り出されるたびに、蔡との縁と歳月を思う。
 実際には「地平線プロジェクト」も「いわきからの贈り物」も大変だったが、計算があったわけでも蔡の芸術性に共鳴したわけでもない。ただ、「蔡さんはいい青年だから助けたい。役に立ちたい。そしてずっとつきあっていきたい」と思っただけだった。結果 、面白いことが次から次へと起こっていった。「蔡さんとつきあってっと、なんだか楽しいんだわ。わくわくすることが多くて」。志賀が豪快に笑った。

(敬称略)

番外編:廃船の行方


 蔡國強は北京オリンピックの開会式で花火によるアトラクションを担当した。そして同時期に北京にある国立中国美術館で大規模な展覧会を開いた。志賀忠重と藤田忠平は蔡の作品の前に立ち、この12年のことを思っていた。
 春にニューヨークのグッゲンハイム美術館で開いた回顧展以来、蔡はグッゲンハイムとの関係が深くなった。グッゲンハイムとしては生存している東洋人の初めての展覧会。しかも、それまで最高の入場者数だったピカソ展の記録を塗り替えてしまった。蔡はまぎれもなく現代アーティストのトップランナーと言えた。
 いわきのメンバーが掘り出した2艘目の廃船は、いつの間にかそのタイトルが「Traveler」から「A GIFT OF IWAKI」(いわきからの贈物)に変わり、メンバーのネームが入るようになった。「この作品はいわきの人たちとのコラボレーション」という蔡の思いからだった。蔡にとって志賀、藤田を中心とするメンバーは「老朋友」だった。展覧会のオープニングのたびに「孤独で先が見えない日本の生活に光を与えてくれたのは、美術館に行ったこともなかったいわきの人たち」と言い続けた。

 志賀によると、グッゲンハイムでの回顧展は3億円の費用がかかった。それを美術館ではスポンサーを募って賄った。しかもあの廃船に買い手がついた。来年、グッゲンハイム美術館が主催するスペイン・ビルバオの展覧会で展示したあと、スイスに運ばれガラス製の展示スペースに飾られるという。海から山へ。いわきで掘り出された廃船は蔡といわきの人々によって命を吹き込まれ、アメリカ・ワシントンD.Cのスミソニアン美術館、カナダの国立シャウィガン美術館、ニューヨークのグッゲンハイム美術館、スペインのビルバオ・グッゲンハイム美術館を経由してスイスという安住の地を得たのだった。
 そうしたなか、市から藤田のところへ思いもかけない相談が寄せられた。小名浜・三崎公園に展示されている廃船「迥光 龍骨」の老朽化が激しく、どうすべきか蔡に聞いてほしい、というのだった。設置してから12年。確かにかなり傷んでいた。蔡に連絡すると「あれは作品ですから撤去することなく保管していてください」と言う。蔡にとってあの作品は、いわきと蔡を結ぶ象徴だった。掘り出された砂浜が見えるあの場所こそがふさわしいのだが、素材が木だけに朽ち方の想像もできた。いわきのメンバーは蔡の意を受けて保管の方法を考えることにしたが、また蔡から連絡が入った。「10月に広島で展覧会をやるので廃船を運び、新しい作品として甦らせたい」というのだ。タイトルは「無人の花園」。メンバーたちは再び、廃船の旅に力を貸すことになった。
 展覧会は10月25日から来年の1月12日まで、広島市現代美術館で開かれ、その4室を「再生へ」というテーマにして新たな作品に生まれ変えることになった。

 志賀は「いわきとかかわりのある作品なので命を伝えていきたい、ということなのだろう。かたちを変えても本質的なものは変わらない。蔡さんといわきとの関わり合い、精神は生き続ける。そうした思いが強いのだと思う」と言う。

(敬称略)

番外編:さわやかな日


回廊美術館
  4月28日の日曜日。その日は、清々しい青空だった。平神谷地区の里山で展開されている「万本桜プロジェクト」の一環として進められてきた「いわき回廊美術館」オープンの日で、そこには、ニューヨークからやってきた蔡國強(55)の姿があった。3.11以降、蔡はいわきの仲間たちのためにさまざまな支援をしてきた。自らアイデアと資金を出し、プロデュースした回廊美術館もその1つだった。
  開館祭であいさつに立った蔡は「回廊美術館のオープンは、二十年前に行った地平線プロジェクトの延長。世界中の人たちがここに来て出会い、対話できる場になるといいな。夢をつくることができる、想像力をかきたてられる場になるといいな、と思ってつくった」とうれしそうな顔をして話した。

志賀の思い
 3.11。地震、津波、原発事故…。地平線プロジェクトの中心メンバー、志賀忠重は、今回の事故前から、原発や放射能に恐れを抱いていた一人だった。線量 計も持っていた。福島第一原発の実態が次々と明らかになるにつれて、「大変なことになった」と思った。電源を喪失し、核燃料を冷やすことができなくなり、メルトダウンに陥った。線量 計で放射線量を測ったら通常の20倍を超える値を示していた。家族を千葉へ避難させた。
  千葉といわきを往復する日々のなかで、はじめの2カ月ぐらいは避難所を回って足りないものを配ったり、炊き出しボランティアなどをした。全国から支援物資が集まるようにもなった。志賀はどんなときでも、思いついたらすぐ行動する。しかも行政に頼るようなことはしない。それが、志賀の主義といえた。
  そんなとき、ニュースで「放射能が恐ろしくて、いわきに来るタンクローリーの運転手がいない」という事実を知った。愕然とした。そして「いわきは近寄り難い土地になってしまった。寂しい。未来の人たちに喜んでもらえる何かを残したい」。そう思うようになった。
  震災から少したって、桜の季節が巡ってきた。桜は何事もなかったように、いつもと同じく美しい花を咲かせた。その光景を見ながら、「桜をたくさん植えよう」と思った。「だれもが来たくなるような、後世の人たちの誇りになる桜の名所をつくる」。そう決意すると、志賀の行動は早い。見晴らしのいい、この場所と思える山の持ち主に趣旨を説明して、承諾を得た。「いいことだ」と賛同してくれた。そして2011年の5月8日、第1回目の植樹会を行った。震災から2カ月もたっていなかった。

蔡といわき
  一方の蔡は、ニューヨークでやきもきしていた。いわきの仲間たちのことが心配でならないのだが、思うように連絡がとれない。20年以上前、社会的にほとんど無名だった蔡。この、縁もゆかりもない中国人アーティストの面 倒を見て、やりたいことをやらせてくれたのが、志賀や藤田忠平(ギャラリー磐城経営)を中心とする、いわきの仲間たちだった。
  いわきの仲間たちは、その後、蔡がニューヨークに活動の拠点を移して、世界的に注目されるようになったあとも、支え続けた。蔡が「廃船がほしいのです。何とかなりませんか」と連絡をよこせば、自腹を切って砂浜に埋もれていた廃船を掘り出し、分断してコンテナで蔡の元に送った。それを組み立てるのも、いわきの仲間たちだった。廃船は、蔡といわきの仲間たちの手によって魂を吹き込まれ、展覧会の顔になった。
  「トラベラー(旅人)」と名づけられた廃船による作品はその後、タイトルを「いわきからの贈り物」と変えて、世界を回ることになる。そのたびに蔡は、いわきの仲間たちを招待して組み立てを手伝ってもらい、必ずレセプションで紹介した。そこには、「この人たちがいなかったら、いまの自分はいません」という思いがあった。

恩返し
  「震災と原発事故でいわきの仲間たちが苦しい思いをしている」。蔡はいたたまれない思いで北京に連絡して作品をオークションにかけ、売上金を仲間たちに送ることにした。そして「1日でも早くいわきに行ってみんなの手伝いをしたい」と思った。志賀は蔡の思いやりに感謝しながら、「万本桜プロジェクトに使わせてもらいます」と言った。
  蔡はそれを聞いてびっくりした。「なんでこんなときに。生活そのものが大変なのではないのか」と思った。しかし、志賀の真剣な思いを聞き、「なんてロマンティックな発想か。とても芸術的。こんなときに、こんなことをしようとすること事態がすばらしい」とあらためて思い、協力することを誓った。
  蔡は震災後、いわきを3回訪れている。最初は震災から1年2カ月後の2012年5月8日、さらにその年の秋、第24回高松宮世界文化賞を受賞した2日後の10月25日、そして回廊美術館がオープンした今回、4月28日だ。
  万本桜プロジェクトの現地を初めて訪ねたとき、蔡は「桜の山のわきに美術館をつくれないだろうか」と思った。しかし、建設には莫大な費用がかかるし、運営の問題もある計画は暗礁 に乗り上げたかにみえた。そのとき、蔡が「志賀さん、あの場所に龍が昇ってくるような回廊をつくりましょう」と言った。蔡はさらさらとイメージ図を描き、少したって本格的なイラストが届いた。材料は伐採した木をあてることにした。工事はほぼスタッフによる手作業にした。

永遠を求めて
  完成した回廊美術館を見た際は「ここには調和がある。建築らしくない素朴さがある。しっかりしたバランスがある。みなさんのためにつくった美術館なので、自由に使ってください」と言った。
  この回廊美術館の建設費は、蔡が昨年受賞した、高松宮世界文化賞の賞金1500万円の半分を寄付して賄われた。残りの半分は、蔡がニューヨークへ渡るときに援助してくれたACC日米芸術交流プログラムに贈った。蔡はどんなに自分が有名になっていても、かつての恩を忘れない。一番最初に自分のことを『美術手帖』で紹介してくれ、いわきとの縁を繋いでくれた美術評論家・鷹見明彦(故人)に対してもそうで、いつも心の片隅には鷹見がいる。

 回廊美術館の屋根に蔡の生まれ故郷である、中国福建省泉州製の瓦が置かれ、火薬で火がつけられた。その瞬間煙が走り、まるで龍が姿を現したようになった。会場が高揚した。
  蔡はよく海外でいわきについて話す。「特に何もありません。小さな山と海があって、とっても普通 の日本があるだけ。それが心の原風景になる。自然と人間に優しい感じがする」。その言葉の奥にあるのは、いわきの仲間たちとのつきあい方だ。利害を持たず、つねに人間として対等。そして、ともに参加してつくる。そこに楽しさがあり、達成感が生まれる。そのプロセスを記録した写 真の数々は、まるでアルバムのようでもある。
  「確かに廃船による作品はみんなとの共同作業ですが、この20年間のつきあい、関係こそが作品なのです」。そう蔡が言った。
  「万本桜プロジェクト」は今後も桜を植え続け、百年をかけて99000本を目標に植え続けるという。中国での9は永遠を表す数字だそうで縁起がいい。永遠。それは蔡と仲間たちの願いでもある。

(敬称略)

番外編:安住の地


 かつて館があったと伝えられている高台からは、広々とした穀倉地帯がよく見渡せた。そこに、蔡國強といわきの仲間たちとの象徴ともいえる「廻光~龍骨」が置かれた。蔡がいわきと関わりを持つようになって20年。廃船を利用してつくられたその作品の前に立つと、志賀忠重と藤田忠平の胸には、さまざまな感慨が去来した。
 1994(平成6)年、3月6日。いわき市立美術館で蔡の個展「環太平洋より」が始まった。その展示の中心が「廻光~龍骨」だった。廻光とは、蔡が四倉のアトリエから毎日眺めていた、太平洋の朝焼けの光(逆光)のことで、過去をよみがえらせる光をも意味していた。
 その年の2月だった。蔡は、小名浜水産高校(現在のいわき海星高校)前の砂浜に埋まっていた廃船と運命的な邂逅を果 たす。北洋サケマス船に使われていた船で、エンジンや油をきれいに取り去り、木の部分だけを残して海に流されたものだった。それが海流の関係か、不思議にその砂浜に打ち上げられ、月日とともに船体は深く砂に埋もれていった。
 そこは、明らかに船の墓場だった。海の男たちを乗せて北洋の荒海を航海し、サケやマスを獲り続けた船たち。それが役目を終え、砂浜で横たわっている。確認できるだけでも3隻あった。蔡は「これだ」と思った。それを志賀たちが掘り起こして、作品にした。
 「廻光~龍骨」は展覧会終了後、掘り出された砂浜が見える三崎公園(小名浜)に設置されていたが老朽化が激しく、市が手を余した。設置してから12年の歳月が経っていた。志賀たちは蔡の意向を受けて廃船を引き取り、蔡の展覧会が開かれようとしていた広島に送った。蔡はそれを「無人の花園」という作品にして新たな命を吹き込み、再びいわきに戻ってきた。
 「作品というのは生きものですから、変わるのが当然なんです。社会そのものは変わっているわけですから」。蔡はそう言う。蔡にとっての物語は、船の墓場に埋まっていた廃船を見た瞬間から始まっていた。それを志賀たちが掘り起こし、バラして運んで組み立てる。いわき市立美術館から三崎公園、広島市現代美術館から、またいわきへ。そのたびにみんなで同じ作業を続けてきた。「廻光~龍骨」は、その行為、関わりも含めての作品といえた。
  4月11日のことだ。次の日から2日間、いわき万本桜プロジェクトによる記念行事が開かれることになっていた。桜も開花し、絶好のタイミングだった。蔡もやって来た。みんな準備に余念がなかった。ところがその夜、「廻光~龍骨」が燃えるトラブルがあった。
 いつものメンバーで館跡に運び上げ、組み立てたまではよかったが、溶接したときの火種がどこかに残っていたらしい。山の頂から火が上がり、井戸があった場所から水を運んで消し止めた。船首部分を焦がしてしまったとはいえ大事には至らず、蔡が指示して組み立て直した。
  龍を思わせる回廊美術館をたどって高台の館跡に上がると、そこに「廻光~龍骨」がある。それは自然と調和する、見事なたたずまいだった。しかもその付近はかつて、志賀が愛犬と一緒に山暮らしをしていた場所だった。
 それぞれの脳裏に、この20年の出来事が浮かんでは消えた。蔡との出会い、無謀ともいえる地平線プロジェクトと市立美術館での個展、もう一隻の廃船による作品「いわきからの贈物」とともに世界をめぐった日々、そして震災、万本桜プロジェクト…。そのつながりや思いは、無名だった蔡が、世界的なアーティストになったいまでも、何も変わらなかった。
 蔡が高台から、向こうの山を指して言った。「あそこに三重の塔を建てましょう」。いつのまにか、万本桜プロジェクトの大地は、蔡のキャンバスになっていた。志賀や藤田たちは場所の見当をつけて、杭を打った。「蔡さんと何かやると楽しい。わくわくする」。そんな思いだけでここまで来た。金はいつもあとからついてきた。そして何よりも、みんなにとってかけがえのない作品である「廻光~龍骨」に安住の地を与えることができた。それが、うれしかった。

(敬称略)