日比野克彦の部屋

コロナ禍でアボリジニの人たちを思う

火と水のこと

 火を持って走った最初の人はどんな気分だったのだろうか? 火をおこした後に、火のついた棒のようなものを手に持って、直接火を触らないで火を携帯する。火は触ると危ない。だから決して触れない。だから尊く感じる。火を持つことによって、その人自体も尊く見える。
 これが誰でも触れる水だったらどうだろう。水を持って走る。これはどちらかというと「ご苦労様です。お疲れ様です」という状況になる。随分「火」と「水」とでは印象が違うものになる。だから聖火という存在も生まれてきたのだろう。いや、聖水という言葉もある。浄めの水か…。
 オーストラリアの原住民のアボリジニの人たちと1週間ほど砂漠でキャンプしながら暮らしたことがある。その時にドリームタイムストーリーという5万年間の記憶の話を、火を囲みながら夜に聞いたことがある。
「私たちの祖先は砂漠の砂の中からやってきた。私たちの祖先は水蛇の姿をしていた…」。アボロジニはブーメランを楽器にして、カチャカチャ鳴らしながら独特の発音で歌を歌う。「あるとき、白い人間がやってきて、手に消えない火を持ってやってきた」。ドリームタイムストーリーは代々歌い継がれてきていて、数万年前の経験が歌になっている。数百年前の経験も歌になっている。
 夜空には天の川が見えた。「インナダコダコ」。これがアボロジニ語で天の川の意味である。インナダコダコが日本語のように川を意味する言葉なのかどうかは、その時、聞き損ねたが、音の響きからは、何か生き物のような感じがしていた。
 私は砂漠で絵を描いていたので、きっと今頃、それが歌詞になって歌われているかもしれない。アボロジニたちはコロナ禍でどうしているのだろう。ググってみたら、「アボロジニ居住区に外部からの侵入を2022年まで禁止措置」というタイトルが出てきた。きっとこのことも歌に追加されているだろう。
「最近はだれもここにこなくなった」「時々、口を塞がれた人間がやってくるだけだ」。時間を飛び超え、海を飛び越え、自由に行き来できる日までは、まだしばらくかかりそうだ。今日もどこかで、火を持って走っている人がいるのだろう。

(アーティスト)

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