アートという船 |
きっとアートが世界(政治とか経済とか外交とかなんちゃらとか)の中で、人にとって最も重要な役割を果たすことになるのだろう。何故ならば世界各国が自国ファーストに傾いていった先には、何かにしがみつくような姿勢になり、しかしやがてそれが窮屈になり、自然欲求として自由に行き来できる感覚を身体に宿っている何かが欲し出し、すると、その何かは身体から幽体離脱する手段を探す。
その時、その何かが身体から離れていく「乗り物」として「アートという船」を使って、自身から旅に出ていく行為を実行していく(※アートには人の日常の時間から非日常の時間に誘う力がある)。
近年あちらこちらで人々が自国ファーストに傾く事ができる理由として、1人の人間が簡単に他者と繋がれるネット社会が、一般化してきたことが背景にある。籠っていても繋がれる、という現実は、未知なる水平線の向こうに挑戦しなくても行った気になれる。
行った気になれたり、自国以外と繋がった気になれるという「気がする」というのは楽な方法である。動かなくてもよくて、気持ちだけがあちらこちらを浮遊している。動くことによっての摩擦(人間関係、肉体疲労)は回避できるので、人が楽に傾くのは当たり前である。しかしネット社会での船旅は、すでに敷かれた航路が複雑なうえに多すぎて、自身の存在がかき消されてしまう感覚になる。
その点アートの船旅は定められた道もなくミステリーツアーであり、見えない航路だからこそ、無背景の中で自身の気持ちの存在の確認ができ、本来の旅の目的を果たす事ができる。
政治も経済もアート作品として捉えた時に、理屈的にはわかるけれども、心を動かすことを主にはしていない作品が多い。しかし相手は人間である。人間は気持ちの生き物であり、人間にとっての豊かさとは究極的には「定量化された価値」ではなく「気持ち」である。だからアートが今よりもっともっと気になる役割に登場する場面が、これから増えてくる様な気がする。
締め切り過ぎている走り書きがゆえの脈略がないけど、まあそんなものだろう。あとは読み手が自由に船に乗れば、それでよい。
(アーティスト)
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