

リアルとバーチャルが持つ独自の特性
接続は呼吸 |
今年も間もなく終わろうとしている。「来年はどんな年になるのだろうか?」と、この時期になると誰しもが想像する。くる年に夢を馳せていると、「鬼が笑うぞう!」と言われたりするのが例年だろう。しかし、去年の今頃は、「2020は東京で2度目のオリンピックが開催される! 新しい国立競技場が出来る! 世界中から日本に大勢の外国の人がやってくる! 何か時代がこれを契機に変わっていく!」と国民的に具体的な翌年の行事が準備されていて、様々な課題を抱えながらも大きな祭りを準備する高揚感のある雰囲気が、日本中を覆っていた年末であった。
だが、現実のシナリオは違った…。その真逆であった。誰一人想像もしなかったことが起こった。世界中の人が魔法にかけられたかのように動けなくなり、オリンピック開催以上の衝撃を私たちに与えた。躍動感あふれるイメージの五輪と金縛りのコロナの組み合わせにより、否応なく現実空間での生活様式の分岐点になった。
2020年は、私たちが身体の外部と接続する手段を、確実にインフラとして新たな方法を獲得した年であった。人と物理的距離を縮めて直接触れるという、人類が文明社会の中で行ってきたこれまでの接続と、意識的距離を縮めて他者と触れるというオンラインでの接続。この二つを同等に使いこなす日常にせざるを得なくなったことにより、私たちは結果的に進化したと言っていいだろう。これはまるで水の中でえら呼吸していた魚が、水辺に打ち上げられて肺呼吸もせざるを得なくなってきたようなことなのかもしれない。そんなイメージをイラストに描いてみた。描いてみて少し違和感を覚えた。進化の方向が逆のような気がしたのだ。海から陸に上がるのではなく、陸から海に向かっている感じがする。肺呼吸からえら呼吸への進化が今起こっているのではないか?
二つの接続(呼吸)をこれまで現実と非現実とか、日常と非日常、リアルとバーチャルという言い方をしてきたが、この二つは対峙するものではなく、まったくそれぞれが独立したものである。なるべくリアルに近いバーチャルを求めるのではなく、それぞれが独自の特性を生かした接続の仕方の用途を持ち得ている。これまでにない呼吸!「そんなこと当たり前!」とデジタルネイティブ世代の声も聞こえるが、一九六四年の東京オリンピックの開会式を、岐阜駅前の満員の喫茶店のカラーテレビで親父の肩車で見た、東京タワーと同じ年の私は、新たな人との呼吸の仕方(接続)の出現を実感するのであった。さてさて来年はどんな年になり、どんな呼吸をしているのだろうか?
(アーティスト)