226:日比野研究室

日比野研究室

 東京藝術大学美術学部の教員になったのは1995年10月でした。1984年に藝大大学院を修了し、在学中から社会に向けてのアート活動を続けていて、藝大のことなど卒業以来まったく考えていなかったので、教員になることに迷いがありました。その際に藝大恩師の福田繁雄先生に相談をしました。するとこう答えが返ってきました。「一人でなりたいと思ってなれるものではない。自身が育った大学から要望があったならばそれに応えよう。ただし辞める時は一人で決めて辞めればいい」。この一言で上野に行くことにしました。福田さんは1984年、私が大学院を修了する同じ年に、教員を突然辞めています。
 定年まで勤めるのではなく、大学を表現の場として捉えて学生とともに成長する―。そんなことをイメージして、私は大学に再び入り、日比野研究室の学生と「SUTADY ROOM TEST vol.1」と題した活動を光村アートプラザで開催しました。この試みは毎年行い、この中から日比野研究室付属病院放送部HIBINO HOSPITALというプロジェクトが生まれ、学生とともに活動をしていました。
 1999年に美術学部の中に先端芸術表現科が新設され、私はデザイン科から「先端」に異動しました。先端には発足時には大学院がなかったので日比野研究室は一時期なくなることになり、日比野研究室を希望していた学生らに責められた、つらい記憶があります。先端の学部1期生から4期生までとは、ともに新しい専攻をつくる勢いで、全体が研究室のような雰囲気で過ごしていました。
 2003年、先端に大学院が出来、日比野研究室が復活します。先端では2001年にインターネットドラマ「北品川四谷線」(日比野作・演出・美術/先端芸術表現科学生出演・音楽・制作)を約2週間、毎晩ライブで行いました。まだネット上には、メールと企業ホームページくらいしかないころの画期的な試みでした。さらに、明後日新聞社文化事業部(2003年)など、藝大の学生に限らず、美大生、社会人らとともに展開するアートプロジェクトを数多く展開していきました。
 日比野研究室は2021年度をもってそのかたちが大学内において、これまでと同様のものではなくなります。現在日比野研究室には26名の学生が所属していますが、いま一人ひとりにZOOMで、来年度の活動のフレームが変わることについて話しています。1996年度から始まって途中4年間の空白があり、2021年度まで、1996、97、98、2003、04、05、06、07、08、09、2010、11、12、13、14、15、16、17、18、19、2020、21の各年度の計22の年度のみなさん、一旦区切りをつけて、さらなる日比野研究室に発展させていきますので、よろしくお願いいたします。

(アーティスト)