アートの苗床 |
わからないことがわからないままである時のことを想像してください。「なんとも言いようがない」とか「なんかわからないけれど」…。この今の気持ち、モヤモヤしている感じとか、今私は言葉で今の自分の気持ちを書いているから、言葉の制約の中でもがきながら文字にしているし、どんな巧みな言葉にしても、言葉にした途端、その引力に引っ張られてしまう。これは絵も同じで、気持ちを絵にした途端、その絵の引力に引っ張られてしまい、目指している渦の真ん中まではたどりつくことはできない。でもそんな場所が、芸術が生まれてくる苗床なのです。
人はこころとか気持ちとか感情というものを備えています。これはお店で売っているものでもなく、図書館で勉強して得られるものでもなく、人から教えてもらえるものでもなく、他者という自分じゃない人と関わった時に育まれるもので、というかその時に必要になってくるものです。
気持ちとか心は不思議なもので、なかなか思い通りには行きません、自分の心がどこに行くのか、心をどうすればいいのか、手に負えない時もあり、どこに自分がいるのかがわからなくなってしまい、なんとなく不安になったり、悲しくなったり。でも自分に言い聞かせてみたり、忘れてみたり…。そんな気持ちのあるところにアートは生まれてきます。
社会というのは、人がたくさんいるところのことを言います。私たち人は、一人でいることよりも、複数で活動する形態を取り入れて、それを社会と呼んでいます。どんなに大勢がいる社会でも私は一人で、私以外はみんな他者になります。自分自身の心も「不思議だなー」と思っているのですから、他者の気持ちなどは、もっと不思議でわからないだらけです。そんなわからないだらけの場所にこそ、アートが生まれてきます。
社会を組織化、役割分担、責任所在とかはっきりとさせようとして、自分が何者かを、他者が自分と何が異なる役割なのかとわかりやすくしたところで、わからない他者との集まりですから、必ず不思議なモヤモヤは発生してきます。全てを分かろうとはしないという意識を持つことが、生身の人として社会と共生して行くことができる処世術とも言えるのです。そして、わからない土壌にはアートが生まれてくるのですから、そのアートの苗床に水をやったりしていくことが、社会の中で生きることを実感することになるような気がするのです。
アートとは、絶えず変化している社会状況の中で変容し、生き続けている「人の心を棲家とする生態系的な動き」であり、それは人という生命体が生きる力を得るために産み出したもののような気がするのです。
(アーティスト=姫路市立美術館での日比野の個展に寄せたテキストから抜粋)