omb553号

 紙面を読んで From Ombudsman553 

 

画・松本 令子

 

 渡辺 謙吾

 衆院選関連の記事で始まった551号。「戦争」の二文字が目に飛び込んできた。わたしはなぜか急に、祖父のことをきちんと調べてみたくなった。祖父はわたしが生まれる前に亡くなっているため、会ったことも話したこともないのだが、わたしは名前の一字を祖父からもらっている。時間を見つけては、幼いころ両親や祖母から聞かされたおぼろげな記憶を辿りながら、実家に残された写真や記録などをかき集めている。
 祖父は海軍士官だった。大正10年、海軍兵学校を出たのち各艦に乗り組み、昭和12年には南洋庁事務官として2年ほどパラオで勤務した。その後第四艦隊へ配属され、井上成美長官の副官として開戦を迎えた。昭和17年6月からは第一遣支艦隊「宇治」艦長として長江流域の警備にあたった。戦局がかなり悪化していた昭和19年8月には、土浦海軍航空隊司令となり、そこで大規模な空襲を受けながら敦賀で終戦を迎えた。戦後、公職追放となった祖父は山形の自宅で小さな英語塾を開き、生涯、近所のこどもたちに英語を教えた。
 遺された写真の中に一枚、強く印象に残るものがある。真珠湾攻撃直前、昭和16年11月13日の最終作戦会議の際に撮影された集合写真だ。山本五十六長官をはじめ、当時の連合艦隊幹部が勢揃いしている。最後列中央に、険しい表情の祖父が写っている。当時四十三歳。これから先に待ち受ける長い戦争も、敗戦も、そして戦後の人生もまだ知らない。その写真の裏には、祖父直筆のこんな書き込みが残されていた。
 『昭和16年十一月十三日より正に二十年後の今日私は教壇の一隅に掲げられたこの写真を仰ぎ見て感慨誠に無量である。然し私は徒らに過去を語る老兵になりたくない。私は更に精進して少年少女と共に明日を語る戦士であることを願う。
 昭和三十六年十一月十三日誌之(六十三才)』
 それからさらに六十五年経ったいま、わたしはあらためて祖父の生きた激動の時代に思いを巡らせる。浅学のわたしに、大所高所から当時を語る資格などない。しかし、ひとりの身近な親族の人生を丁寧に辿り、祖父が語ろうとした「明日」を想像することくらいはわたしにもできるはずだ。

(すぎのいえ書房)



 

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