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縁起をまとめた鍋田三善 | 561号 |
江戸時代に長福寺縁起をまとめた鍋田三善がいなかったら、寺の歴史が明らかになることはなかった。金沢文庫の展示で現物を見たが、実に几帳面で花押の再現性まで見事だった。
そもそも鍋田家は安藤家に仕えていて、父・三房の代に美濃国加納から磐城平に移ってきた。父の仕事の関係で、九歳から江戸の下屋敷に移り住み、滝沢馬琴、藤田東湖など、多くの学者や文化人との交友が深かったという。通称を舎人といい、「晶山」という号を持っていた。いわきの屋敷は才槌小路にあり、藩命を受けて地図づくりに取り組んだ。測量機材を持ち、人夫を連れて山深く分け入ったら、そのいかめしい姿を見た山里の住民が盗賊と間違えて逃げ出した、という逸話が残っている。水戸徳川家が歴史書「垂統大記」を編集することになり、三善に資料集めをしてもらいたいと、藩に要請が来たこともある。
64歳のときに下屋敷が火事になり、長い間、書き記してきた原稿の草稿や心血を注いで集めてきた歴史資料などを焼失してしまう。その胸中を思う。三善は1858年(安政5)5月31日に81歳で生涯を閉じた。墓は東京雑司ヶ谷の日蓮宗法明寺。『いわきの人物誌』で紹介されているのだが肖像画がない。それが残念だ。 その子孫は戊辰戦争を戦い、その後もいわきの旧城跡に住み続けている。
(編集人 安竜昌弘)
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