記事を通して人と人とがつながる喜び
『真吾の恋人』のこと |
9月の中旬だった。「ご相談」という表題のメールが来た。そこには「日々の新聞の第50号を拝読したいのですが、どのようにすれば読むことができるのでしょうか。ネットですと、概要しか読むことができませんでした。お教えいただければ幸いです」とあった。送り主は「読売新聞文化部記者の前田啓介」とある。それを読んだ瞬間、特集「『真吾の恋人』を探して」が頭に浮かんだ。
2005年のことだから、もう20年も前になる。ひょんなことから芥川賞作家、古山高麗雄(故人)がいわきと縁があり、親友の恋人だった女性の家を何回か訪ねて小説にしていることを知った。それで「その女性を探し出してインタビューし、記事にしよう」ということになり、3月21日に、その家を訪ねた。
すでに時計は夜の7時を回っていて、部屋には電気がついていた。遅い時間の訪問を詫び、「古山高麗雄さんとお知り合いの方ですか」と尋ねると、きれいな標準語で「そうですが」と答えた。そんなふうに『真吾の恋人』のモデル、安井トクさんと初めて会った。トクさんは当時86歳。遠い目をして煙草を吸う仕草が堂に入っていて、迫力のようなものがあった。そして、自らの人生と「真吾」こと倉田博光や古山のことを真摯に話してくれた。
その2年後も88歳のトクさんから話を聞き、記事として載せた。体が二回りぐらい小さくなっていたが、いつもいる八畳間は、相変わらず掃除が行き届いていた。静かで慎ましくてきれいな生活。そのとき「いつまで生きているのかな。だれにもやっかいにならないで死にたい」とつぶやいた。その何年後だったか、近くを通ったときにふとトクさんのことを思い出して家を訪ねてみたら、もうだれも住んでいなかった。
古山が生まれたのは北朝鮮の新義州(当時は日本の植民地)で、宮城県七ケ宿町出身の父は医師だった。作家の安岡章太郎やトクさんの恋人だった倉田は予備校時代の仲間で、その著書によく登場する。そして戦争体験が古山の人生に大きな影を落とした。古山自身は戦地からなんとか帰還できたが、暁部隊に所属していた倉田は昭和20年の元旦にフィリピンで戦死してしまう。24四歳だった。それもあったのだろう。古山はつねに自分の人生と向き合い、戦争体験を中心に倉田やトクさんのことを小説として書き残した。
前田記者から来たメールには「古山高麗雄氏について現在、調べているのですが、その中でも、安井トクさんへのインタビュー記事は貴紙だけかと思います。トクさんが住んでいた舟場(内郷綴町)の家に行くつもりです。その際は、ぜひ御社に寄りたいと思っております」と書かれていた。記事で人がつながった。それが嬉しい。
(安竜 昌弘)
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