

あなたの1冊はなんですか?
高校生を前に |
たまに、「話をしてくれ」と頼まれることがある。テーマはさまざまだが、大きく分けると3つで、「取材を通して感じたこと」「広報紙などの編集の仕方」「草野天平について」となる。先日も知り合いの高校教諭から「ことしは草野天平生誕100年なので関連する話を頼む」と言われ、壇上に立つはめになった。
集まっていたのは、いわき市内の高校の学校図書館関係者だった。生徒がほとんどで、司書も担当の先生もちらほらいる。高校生は一番下の娘より少し下の世代である。「さてどうしたものか」と思ったが、高校生と向き合うにはいい機会だ、と思って腹をくくった。
自分が高校生だったころのことを思い出してみる。団塊の世代と新人類に挟まれた世代で、「三無主義」という言われ方をした。いわゆる無気力、無関心、無感動。時代的には高校にまで学生運動が波及し、学帽の自由化要求などをきっかけに成田闘争に参加する生徒たちもいたが、ほとんどの生徒は、まさに無関心だった。でも学校側は腫れ物にでもさわるような感じだった。
ある日、学校がアンケートをとった。「講演会をするのだが、呼んでほしい人の名前を書いて出しなさい」という。いま思えば、なんとも民主的なやり方だった。希望が一番多かったのは五木寛之さん。『大河の一滴』や『親鸞』を書く枯れた五木さんではない。『デラシネの旗』や『青年は荒野をめざす』を書いた、30年近く前の颯爽とした五木さんである。しかし折り合いがつかなかったらしく、やってきたのは3番人気の庄司薫さんだった。
庄司さんは体育館に革靴を履いて現れ、「スーツにスリッパというスタイルが自分のなかで許せないので校長先生にお願いしました。きちんと拭きましたから了承してください」という意味のことを言って「順位をつけることの意味」について哲学的な視点から話した。
『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞をとった庄司さんは当時一世を風靡した作家で、若者から絶大な支持を受けていた。あのとき庄司さんは高校生に向かって話したかったのだと思う。だからといって媚びずに人間として尊重し、自分の言葉で話した。
内容はよく覚えていないが、世間が三無主義とひとくくりにする若者に対して、真摯に向き合ってくれた姿勢が深く心に刻まれた。庄司さんが文章を発表しなくなって久しいが、何年かに1度、庄司作品の背表紙と目が合うことがある。そんなときは本を取り出してページをめくり、あのときの庄司さんのことを思い出す。
高校生たちには「なぜ本を読むのか」を問いかけ、「筋を追い、読み終えることを目的にするのではなく、何か自分にひっかかってくるものを探し続けてください。それが見つかったらより広く、そして深くかかわってください。そうすればひょっとして自分が探しているものが見つかるかも知れません」というようなことを、自分の経験を踏まえて話した。そして「みんなの『私の1冊』はなんですか」と尋ねた。
すると、遠慮気味に手を挙げた女子生徒がいた。聞いたことのない作家の本だったので、「なぜその作品なんですか」と問い返すと「それまでのものとはまったく違っていて、それが自分に響いたから」と言った。毅然とした答えだった。
ふと、日々の新聞の初代オンブズマン・増田れい子さん(元毎日新聞記者・エッセイスト)の言葉を思い出した。
「日々の新聞には、若い人たちが活字に興味を持つような役割をも担ってほしいと思っているんです。だんだんにでいいですから。考えてみてくださいね」
そんなニュアンスだったと思う。のど元に刺さった魚の骨のように、いつも心の片隅にひっかかっているひとこと。まだ、約束を果たせていない。
(安竜 昌弘)
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