168号 旧友の手術(2010.2.28)

画・黒田 征太郎

病院の選択から見える医療事情

 旧友の手術

 まちで旧友にばったり会った。人づてに、胃癌のために勤めを辞めた、と聞いていた。でも元気そうだ。全体的にふっくらとしていて、かつての痩せぎすの印象がない。鋭かった目も穏やかになっている。「大丈夫なのか?」と尋ねると「大丈夫だ。胃癌のために依願退職したんだ」とシャレにもならない駄洒落を言って、ガハハと笑った。
 立ち話だったが経過を聞いた。自覚症状がまったくないなかで、総合磐城共立病院で胃カメラをのんだ。定期検診のような軽い気持ちだった。そして癌が見つかり、手術を勧められた。
 奥さんは共立病院の看護師である。普通なら共立で手術をしただろう。しかし、医療に携わっている人だからこそ、胃癌手術に関する最新の情報を集め、現状で最良と思える道を選択した。結論は、東京築地の国立がんセンター中央病院での、専門医を指名しての治療だった。患部を切除するのではなく、癌の層を剥がすような手術を受け、いまは普通の生活を送っている。
 恐る恐る「酒飲めるのか?」と聞くと、「飲んでる。少しだけどな」。いたずらっぽくニヤリと微笑んだ。

 医療の話題が上がるたびに、かつて共立病院を取材したころのことを思い出す。心臓血管外科と麻酔科の対立、産婦人科の人違い中絶…。2つの不祥事などをきっかけに、市立でありながら「聖域」として、そのほとんどの権限を病院長に委ねられていた共立病院が行政の介入を受けることになった。「時代が違う。いまではありえない」と言われるかもしれないが、はたして行政主導の病院になったのがよかったのかと、ときどき思う。
 今回の共立、常磐病院の1本化も、ただ重い荷物を降ろしただけではないのか。患者本位に考えれば、市は医師会と対峙しても常磐病院の譲渡先募集をオープンにし、医療レベルや医療に対する姿勢などを公平・公正にチェックすべきだったのではないか、あのときの報道はただ、流れに乗ってしまっただけなのではないか、などと頭のなかがグルグルと回る。
 共立病院の問題の深刻さは、組織として機能していない内部にあると思う。個人レベルでは「人間の命を守る」という使命感に溢れているのに、科を超えて横に繋がらないし、1つになれない。だれが見ても問題だと思う腐ったリンゴを取り除けない。医者が不足しているというのに、定年で離れていく必要なスタッフを引き留めることができない。
 責任ある立場にいる人たちの意識がなぜか他人事で、必死さが見えない。なのにだれもペナルティーを課さないし、課されないから、なあなあがはびこる…。いわき市民の命を守る最後の砦だったはずの共立病院が、自らの血を流すこともせずに現状を世の中のせいにしてあきらめ顔でいる。それが悲しい。

 旧友は、悠々自適の生活を送っている。若いころから映画を観るのが趣味だったので、映画専用チャンネルやDVDで映画を楽しんでいる。
 市立病院の建設問題に話題を振ると、「呼吸器外科がなくなるんだってな。医者がいないのに病院つくってどうするんだ。金の無駄じゃないのか。その前にやるべきことがあると思う」と軽口を叩くような調子で言った。
 その言葉を聞きながら、「市民の方がよく見ている」と思った。そして病気の不安との闘いのなかで、慣れない土地で手術を受けることを選択した友の複雑な思いが、胸に響いた。

(安竜 昌弘)

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