まちに評論家をあふれさせる
スポーツは文化 |
4年前の秋のことだ。高校野球のブラジル選抜が福島選抜と、あづま球場で対戦した。試合はブラジルが劣勢で、本領を発揮できないでいた。そんななか、大きな声を張り上げて陽気に応援している女性たちがいた。須賀川あたりに住んでいるブラジル人たちだという。日傘に手製のデコレーションをつけて、なにやら叫んでいる。観客はほとんど福島選抜を応援している地元民だろうから、最初のうちは空気が冷ややかだった。服装も派手な彼女たちだけが浮いていたのである。
でもめげずに選手たちを鼓舞している。回が進むにつれて、母国からやってきた少年たちを励ましている純粋な気持ちが、スタンドに伝わってきたらしい。観客もブラジルの少年たちのプレーを温かく見まもるようになり、冷ややかな空気が和み始めた。
5回だったろうか。ブラジル選抜が連続長打でやっと点を取った。そのとき彼女たちは派手な傘をグルグル回して「やったー」とばかり拳を天に突き上げ、歓声を上げた。その瞬間だった。球場全体から拍手が湧き上がった。その拍手は「よかったね」という温かさに満ちていた。言葉は通じなくても心が通じ合った瞬間だった。
「パスは言語」という言葉がある。言葉が通じなくてもひとつのパスでお互いを認め合うことができるし、思いが伝わるという意味だ。スポーツには何かを共有できる力がある。それはときに、プレーする側と応援する側の垣根を取り払うことができる。ひとつの試合、プレーを語り合うことで時計がそのときに逆戻りし、みんながひとつになれる。それがいい。
ヨーロッパではサッカーが文化だという。どこにでもいる肉屋のおばさんや散歩をしているおばあさんまでが、地元チームの試合のことを熱く語る。「あのプレーがどうだ」「監督の采配がどうだ」…。まちには評論家があふれている。前のサッカー日本代表監督のオシムさんは「それこそが文化。日本はまだそこまで至っていない。そうならないと、世界に誇る日本らしいサッカーは生まれない」と言う。
駆け出し記者のころ、最初の担当がスポーツだった。そして保健体育課のスポーツ主事に、耳にたこができるほど言われた。「結果だけ書いていてはだめだ。プロセスや背景を取材して書かないと。そこにドラマが潜んでいる。それを知ってもらわないと多くの人にスポーツを理解してもらえない」。それがいまにつながっている。
はたして日本、いや、このいわきで、まちのおばさんたちが勝ち負けではなく、ひとつのプレーの良し悪しを話題にするような時代が来るのだろうか。スポーツが文化になる道は、まだはてしなく遠い。
(安竜 昌弘)
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