197号 原発難民(2011.5.15)

画・黒田 征太郎

原発を書き続けてきた詩人のはなし

 原発難民

 その本は突然送られてきた。手紙を探したがどこにもなかった。「謹呈」の栞がそっと、はさんであった。
『福島原発難民—南相馬市・一詩人の警告 1971年〜2011年』。かつて取材したことがある、若松丈太郎さんの本だった。発行所はコールサック社とある。
 中身をぱらぱらとめくる。どうも「3.11」以降に書かれたものは「原発難民ノート—脱出まで」と「あとがき」だけのようだ。しかし、本に収められている散文や詩を読み進めるに連れて、深いため息が何回も漏れた。そこには福島第一原発から25kmの距離で暮らしてきた詩人・若松さんの警告と叫びがあった。そしてあの事故のあと、それは怒りを通り越して慟哭に変わる。
 若松さんは、あとがきで書いている。
「いつも、もうこれを最後に原発に関しては書くことは止めようと思いつつ書いてきた。こんどこそ、これで終わりにしたいという心境である。だが、これまで同様に書き続けることになるかもしれないとも感じている。いまはただ、わたしたちの子や孫や、そしてさらにその後代を生きるひとびとに対しての、人間としてのわたしの責任を考え、これらの詩文を1冊にすることとした」

 原発はこれまで、イデオロギーで語られてきた。たぶん、これほどまでに原発の危うさ、世の不条理を訴え続けてきた若松さんも、いわれのないレッテルを貼られ、体制を脅かすもの、という見方をされてきたのだろう、と想像する。しかし、1度だけ会った若松さんは、静かに鈴木安蔵や埴谷雄高、島尾敏雄を語った。そこで感じたのは深い知識に培われた穏やかで奥の深い反骨であり、ヒューマニズムだった。
 原発から30キロ圏内に住む若松さんはチェルノブイリを訪ね、事故が起きた場合に、自らが「原発難民」になるいまの事態を予測している。7年前のことだ。
 チェルノブイリから200km離れたところに高汚染地帯(ホットスポット)があることに驚き、放射性物質がどんなに怖いかを知る。しかもその距離は福島—首都圏間と同じで、事故が起きた場合のシミュレーションがあるのかどうかも定かではない。
 これまで、どれだけのことが覆い隠されてきたのか。そして、どれだけの人が犠牲になり、それが闇から闇に葬られてきたのか。若松さんはその無念さ、やるせなさを、40年以上にもわたって詩や文章で語り続けてきた。そして、これだけの大事故を起こしたというのに、その傲慢な体質はまったく変わっていない。それが何より悲しく、茫然と立ち尽くしてしまう。
 若松さんは、この本の最初に「南風吹く日」という自作の詩を掲載した。その最後はこう締めくくられている。
 二〇〇七年十一月/福島第一原子力発電所から北へ二十五キロ/福島県南相馬市北泉海岸/サーファーの姿もフェリーの影もない/世界の音は絶え/南からの風がはだにまとう/われわれが視ているものはなにか

「原発難民」になった若松さんはいま、慣れ親しんだ南相馬を離れ、福島にいる。

(安竜 昌弘)

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