201号 ブログのこと(2011.7.15)

画・黒田 征太郎

非難されることを覚悟でする批判

 ブログのこと

 震災から4カ月が過ぎた。まだ7月半ばだというのに梅雨が明け、30度を越す暑さが続いている。間違いなく時は動いている。しかし思考回路は止まったままで、ただ流れにまかせて日々をやり過ごしている感じが、抜けない。「いつになったら戻るのだろう」とも思うのだが、一方では「この状態に折り合いをつけていくしかない」という思いもある。
 3月14日から、自身のブログ「いわき日和」をできる限り更新する、という縛りをかけている。地震と津波で瓦礫の山になってしまった周囲を見て、何かを伝えたいと思った。新聞が発行できないなか、不特定多数の人に現状を知らせるには、インターネットという手段が一番有効だった。その後、新聞が発行できるようになったが、見ず知らずの人からも「読んでます」とコメントや感想が寄せられるようになり、やめられなくなった。低線量被曝に象徴されるような、だらだらぐだぐだの日々を送ってしまうことが多いので、朝一番にブログを書く、という行為は生活にメリハリと緊張感が生まれていいのかもしれない。
 ネットの世界は、自らを明かすことが少ないので顔が見えない。だから恐い。それもあって、ある時期から自分は実名を使うようにした。それは自らをさらすことで、実名を使う人がひとりでも増えてくれたら、という願いでもある。せめて自分のブログぐらいは、お互いの顔が見える、本音のやりとりがしたい、という思いもある。
 ブログを訪れる人が増えると、陰険で悪意に満ちたコメントも寄せられるようになる。でもそれは覚悟している。とはいっても、あまり気分のいいものではない。
 先日も「安竜さまもメディアのお1人ではありませんか? あまり、いっしょくたにした言い方はよくないのではないでしょうか。どうも私怨のようなものを感じてしまうのです。(中略)見当はずれな批判、一方的な批判も避けられるべきです。上杉某のような空気を感じてしまい、残念です」というコメントが寄せられた。
「上杉某」とは大手メディアや記者クラブを公然と批判している、上杉隆さんのことだ。確かに「官公庁の発表を右から左に垂れ流す既存メディア」などという批判を書くことが多いので、「同じ穴のムジナ」と決めつけられたのだろう。差出人には「神谷」とだけあった。
 そういう場合、無視はしない。自分の考えをコメントとして返す。そのやりとりを見ず知らずの読者にも読んでもらい、メディアやネットのあり方を考えるきっかけになれば、と思うからだ。でもたいていは、返事のコメントを出した段階でやりとりは終わってしまう。それが残念だ。
 ジャーナリストのむの・たけじさんは、決して人をそらさない。手紙には必ず返事を出し、いつまでも若者と議論できる感覚を持ち続けたい、と思っている。前から、それを「羨ましい」と感じていた。
 だれでも頑張っている。しかしそれが自己満足であってはならない。そしてマスコミは愛情を持って批判し、きちんと批判を受けなければならない。批判する、ということはそういうことだ。「どうぞだれでもなんでもおっしゃって」という、腹の据わった覚悟が必要なのだ。

(安竜 昌弘)

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