猫をめぐるミステリアスな話
26年前の事件 |
前回、「アンダスンと猫」のことを書いたあと、本棚から佐藤泰志の『海炭市叙景』を引っ張り出して読んでいる。その世界に引き込まれて映画も見た。函館の美しい風景に市井の人たちの日々、人生が重なっていく。静かな作品だった。
登場人物の1人に「ネコを抱いた婆さん」がいる。立ち退きを迫られている婆さんで、いつも太ったシャム猫を抱いて話しかけている。ある日、猫が突然いなくなる。そんなミニストーリーに触れながら、ふいに26年前の猫をめぐる話がよみがえってきた。
昭和60年(1985)の夏のことだ。うだるような暑さが続いていた。いわき民報小名浜支社に転勤して3年目を迎え、ほろ苦い思いを胸の奥にしまい込みながら、「サツ(警察)回り」の日々を送っていた。
ある夜、平で殺人事件が起こった。42歳のスナックママが、店で何者かに首を絞められて殺されたのだ。驚いたことに、殺された女性は、顔見知りだった。
思えば、その店には1度だけ、だれかに連れられて行ったことがあった。店名は「そうせき」。夏目漱石からつけたのだという。女性は、髪をアップにして渋めの和服を着ており、真っ赤なルージュが古風な色白の顔に映えていた。体は華奢だが妙に存在感があり、細い指でタバコをおしゃれに吸っていた。
事件は8月19日、月曜の夜に起こった。
スラリとしたパンチパーマの男が入ってきた。見たことのない顔だった。白いサマーセーターに白いズボンを履いたその男は、カウンターの一番奥の席に座った。客はだれもいなかった。男はビールを注文し、ママにも勧めると、「私は水割りにするわ。いい?」と言い、水割りでのお相伴が始まった。この日のママは紫地にピンク、白があしらわれた柄物のワンピースを着ていた。
それから2時間後、ママは客として「そうせき」を訪れた同業者によって、見るも無惨な姿で発見された。
しかし事件は思わぬ展開で幕が下ろされる。発生から9日目の28日、1人の男が家族に付き添われて、いわき中央署に自首して来たのだ。青白い顔をうつむかせ「私がやりました」と静かに言った。
28歳の漁船員だった。事件を起こした日、午後5時ごろから、自宅でウイスキーの水割りを3杯飲んだあと、タクシーを呼んで平の繁華街へ出た。次の日の朝にはサンマ船に乗り込むことになっていた。飲みたい気分だったのだろう。飲食店で軽くビールを引っかけて、なじみのスナックへ行こうとしたが、その店はあいにく休みだったために「そうせき」に行くことになる。それが午後7時ごろ。男にとって運命の歯車が狂った瞬間だった。
勘定をめぐって言い争いをしているうちに、「ここは、あんたみたいな男が来る店じゃないのよ。まだ難癖つけるならいいわ。人を呼ぶから」と言われ、思わずカッとなって首を絞めた。「あんたみたいな男」。その一言が男の理性を失わせ、取り返しのつかない犯行に向かわせたのだった。
ママはひとり暮らしで、猫を2匹飼っていた。2匹の猫は飼い主を失ったあと、どこかに姿を隠していたが、「犯人逮捕」の日に突然戻って来て、餌をうまそうに食べた。それが新聞の記事になった。
この年、小川中でいじめによって1つの尊い命が失われ、阪神タイガースが日本一に輝いた。そして12月25日のクリスマス、男に懲役8年(求刑は9年)の実刑判決が言い渡された。
結局、『海炭市叙景』に出てくる婆さんの太ったシャム猫も、何日か後に何事もなかったように戻ってくる。猫って、なぜかミステリアスだ。
(安竜 昌弘)
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