優しく美しいエヴァンスのピアノ
「大停電の夜に」 |
レコード棚から取り出したのはビル・エヴァンスのアルバム「ワルツ・フォー・デビー」。ターンテーブルに載せ、静かに針を落とすと「マイ・フーリッシュ・ハート」が流れる。
映画「大停電の夜に」(源孝志監督)のファーストシーン。その優しく温かいメロディは、そのあともずっと映画の底流にあって、静かに全体を包み込んでいく。源監督は、あえて日本盤レコードの初回盤(1962年発売)を探し出して使ったという。
NHKBSの「旅のチカラ」で今年80歳を迎えた俳優の宇津井健さんがスペインのアンダルシア地方を旅した。その企画を持ち込んだのが、源監督だった。
「大停電の夜に」を撮っていたとき、宇津井さんは、スペイン純血種・アンダルシア馬の素晴らしさを繰り返し語った。それを聞いた源さんが、どうしても宇津井さんをアンダルシア馬に乗せたくて、番組に誘ったのだった。
妻が病気になってからは、愛馬を手放し、生活の一部ともいえる乗馬を断っていた宇津井さん。馬に乗るのは10年ぶりだそうで、あこがれのアンダルシア馬で聖地へレス・デ・ラ・フロンテーラをめざす。それは、数年前に亡くなった妻への巡礼の旅といえた。とても内容が詰まっていて心に滲みた。映像も良かった。
「大停電の夜に」はクリスマスイブの東京が舞台。宇津井さんは妻に秘密を打ち明けられる初老の男性を演じている。さまざまな人生や人間模様が交錯しながら、停電のイブの夜がふけていく。
そして、田畑智子が点すキャンドルの光が、登場人物1人ひとりの思いを投影していく。
この11日で震災から9カ月の時を刻んだ。ちょうど1カ月目の4月11日の夕方、いわき地方は大きな余震に見舞われて、停電した。信号も点かず、まちは真っ暗闇になって混乱した。
あのとき、やっとのことで家にたどり着き、ローソクの光で夕飯を食べた。しかし、何を食べたのか覚えていない。水も出ていなかったし電気も使えない。いまあらためて振り返ってみると、なんとも不思議な夜だった。
師走に入ったというのに、街が静かだ。なんとなくテンションが上がらない。でも、8日はいつものように凶弾に倒れたジョン・レノンを意識し、「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」が入ったCDを探して聴いた。そしていまは、エヴァンスの「マイ・フーリッシュ・ハート」。その美しい旋律が絶え間なく体中を巡っている。
(安竜 昌弘)
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