

封印していた故郷への思いが溢れた
田村隆寿さんのいま |
「毎日新聞の鈴木です」。その女性は、電話口でそう言った。留守にしていたときに、1度電話があった、とは聞いていた。「磐城高校のエースだった田村さんの居どころをわかるでしょうか」と言っていたという。正直、「またか」と思った。昨年の11月ごろだったと思う。
10年ほど前に、田村さんを週刊誌の記者につないで、いやな思いをしたことがあった。対面して話をし、解り合えたと思ったのだが、活字になったものは興味本位の刹那的な記事でしかなかった。以来、そういう問い合わせに対しては「自分でお探しください」と、丁重に断るようになった。そのたびに記者の覚悟や情熱が見え隠れした。そして、だれ一人として、田村さんまでたどり着いた人はいなかった。
鈴木さんにも、週刊誌記者とのいやな思い出を説明しながら、こう言った。
「田村さんの取材は、居場所を突き止めることが大きなウエートを占めます。自分で汗をかいて、いまどこで何をしているのかを調べ、信頼関係を築いてこそだと思います。ルポライターなどはみんなそうしています。そう思いませんか」
社名やレッテルにあぐらをかかないでほしい、個人で勝負してもらいたい、という老婆心もあった。
「確かにそうですね」。そう言いながらも鈴木さんは引き下がらなかった。田村さんがいま住んでいる町と勤めているコンビニを特定することを怠らなかった。その畳みかけるような、裏を取る口調には迫力があった。
「最後に会ったのは5年も前のことだし、その後は確認をしていないのでわかりませんが頑張って」。そんなようなことを言って電話を切った。
そして年が明けて何日かが過ぎ、鈴木さんの記事が掲載されたことをネットで知った。「幸福のかたち・3.11後の選択」という連載記事の最初で、タイトルは「71年・甲子園 磐城高『小さな大投手』」。毎日新聞の1月1日号に掲載され、記事の最後には【鈴木梢】と署名があった。
田村さんは、自分の人生を背負いながら地道に暮らしていた。そして大震災が起こり、いまの自分に何ができるかを考えていた。「封印していた故郷への思いが、せきを切ってあふれ出した」と、その記事は伝えていた。
3.11以降、だれもが何かをしたいと思った。そして行きついた先は「自分にできることを精いっぱいすること」だった。
1971年の甲子園。小さな体で硬式ボールに思いを込め、決勝までの4試合・406球を1人で健気に投げ抜いた。だれもが、その姿に勇気と可能性をもらった。そんな田村さんだからこそ、田村さんにしかできないことが必ずある。
その日が来ることを辛抱強く待ちたい。
(安竜 昌弘)
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