『ハッピーエンド通信』が息づいていたころ
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かつて『SWICH』の編集者をしていた角取明子さんが『ハッピーエンド通信』を3冊送ってくれた。「とっても好きだった雑誌です。読んでみてください。川本三郎さんの文章も載っていますから」と添え書きのようなものがあった。
角取さんは『SWICH』の黎明期に現在の編集長・新井敏記さんたちと雑誌を作っていた。当時、川本さんが、あの『マイ・バック・ページ』の元になった原稿を書いていて、角取さんは担当編集者だった。角取さんと新井さんのことは、川本さんが何回か書いているので、名前は知っていた。それがひょんなことから共通の知人を介して角取さんと知り合い、交流が始まった。いま角取さんは、原発をゼロにするために、個人の立場で地道に活動している。
『ハッピーエンド通信』については知らなかった。送られてきたのが1980年に発行されたNO3、4、6号。1977年にはいわきに戻って新聞記者をしていたから、創刊時期と入れ違いになってしまったのだろう。調べてみたら、創刊は1979年で、発行所はニューミュージック・マガジン社。月刊誌だった。
最近、新潮社の『考える人』編集長・松家仁之さんがこの雑誌のことを、ブログに書いていることを知った。そのころ大学生だった松家さんは、この雑誌でレイモンド・カーヴァーのことを知り、アメリカ文学、アメリカン・ジャーナリズムに興味を持ったという。しかも、ニューヨーカーのためのシティ・ペーパー『ヴィレッジ・ヴォイス』を定期購読していたというから、『ハッピーエンド通信』の読者としては筋金入りだ。
角取さんが送ってくれたなかにアメリカン・ジャーナリズムを特集しているものがあり、川本さんが『ヴィレッジ・ヴォイス』について書いている。
川本さん曰く、『ヴォイス』はほんのちょっとだけ先に行こうとする「急がないジャーナリズム」だが、狭いローカル性に閉じこもっているわけでは決してない。問題が1地域を超えている時には積極的に記事にする。原発・原子力エネルギーには反対だからスリーマイル島の原発事故や、ハリスバーグでの原発反対運動に大きなページをさく。とはいっても、大仰な身ぶりで悲愴なことを喋るよりは、軽い皮肉とユーモアのほうを好む—のだという。
さらに、ニューヨークへ行ったときに『ヴォイス』編集部を訪ね、編集部員の1人に「お前たちはどうしてこんなにオレたちのことをよく知っているのだ、クレイジーだ」と言われたというエピソードが紹介されていて、思わずほほえんでしまった。
『ハッピーエンド通信』。常盤新平さんと青山南さんと川本さんが月評対談をしている。そしてみんな書きたいことを自由に書いて、きちんと署名を入れている。ちっとも窮屈でなくて、弾んでいる。
読んでいると楽しくなってつい、なんでもできる気がしていたあの時代のことを思い出してしまう。でも、この雑誌が存在していたことを時代のせいにはしたくない。いまの時代でも、こんな雑誌ができるはずだと信じたい。
(安竜 昌弘)
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