ラストシーンで流れた美しいピアノ曲
鉄の女の涙 |
「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」のラストシーンで美しいピアノ曲が流れる。画面の透明感と合っていて、押しつけがましくない。でも、心地よく耳に残る。聞き覚えがある。バッハのようなのだが、はっきりとはわからない。曲探しが始まった。
食料雑貨商の娘・サッチャー。イギリスでは特に名門の出でもない女性がオックスフォード大に入り、政治家になって頂点まで上りつめる。でも単なるサクセスストーリーではない。映画では、認知症で不自由な生活を送っている今と、過去の出来事をクロスさせながらその人生を追いかけていく。光と影が交錯し、「鉄の女」の素顔や苦悩が浮き彫りにされる。メリル・ストリープの演技が見事だ。
自らが所属している保守党の歯がゆさ、だらしなさに幻滅したサッチャーは党首選に出馬することを決意する。そのとき、信頼している同志の男性議員が言う。
「党首で満足してはだめだ。そこまで決意したなら首相になる気でやらないと。首相になって自分の思い通りに政治をし、国を動かすんだ。でないとつまらない。ぼくは牝馬に賭けるよ」
サッチャーの原動力はグレートブリテンの誇りだったのだろう。「改革に痛みはつきものです。決断せねばなりません」「私は戦ってここまで這い上がってきた」「堅い決意でこの国をよみがえらせます」…。その言葉に「鉄の女」の真骨頂が見える。しかし、首相として時を重ねるごとに、自分と周りとの溝が深まり、ついには辞任しなければならなくなる。頂点を極め、権力を手にしたものの孤独、そして悲哀を感じさせるシーンだ。
政治家としてのサッチャーがいつも胸に抱いていたのは、雑貨商から市議会議員に転進した父、アルフレッド・ロバーツの、次の言葉だった。
「考えが言葉になり、言葉は行動になり、行動は習慣に、習慣が人格になり、人格は運命を形づくる」
最初から最後まで、見る側を言葉に反応させる映画だった。
さて、最後に流れていた曲がわかった。J・Sバッハの「平均律クラヴィーア曲集」第一巻プレリュードとフーガ第一番のハ長調。家にはコープマンのチェンバロとグールドのCDがあったが、どうもしっくりこない。そこでリヒテルとキース・ジャレットのCDを新たに買い求めて聞き比べた。明らかに違う演奏だが、どちらも精緻で理知的。しかも崇高さにあふれている。その時の気分でどちらを取り出すかが決まりそうだ。
そういえば、バッハの無伴奏チェロソナタもロストロポーヴィチとヨーヨーマ、どちらを聴くか、そのときどきの状況で変わってくる。それがクラシック音楽の楽しみ方でもある。
3.11以降、なかなか聞くことができなかった音楽は、光の中を花びらが舞うようなハイドンの弦楽四重奏曲に救われ、フィリダ・ロイド監督がシンプルなバッハのピアノ曲に導いてくれた 。
(安竜 昌弘)
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