227号 いい町とは(2012.8.15)

画・黒田 征太郎

路地を歩き、お国言葉と温かさにふれる

 いい町とは

 編集室の近くにコンビニがある。過不足なく用が足りるので、ついつい利用してしまう。しかし、時々いやな気分になることがある。
 まず、マニュアルに沿った口先だけの応対に辟易する。言ってみれば「言わなければならない言葉を言えばいい」という義務感だけ。そこには「何のために」という意識がない。しかも早口なので、せき立てられているようで焦ってしまう。
 商品の補充や整理も、白昼堂々とやっている。「何にしようか」と選ぼうにも店員が邪魔になって近寄れない。客であるはずのこっちが、逆に気を遣って待たざるを得ない。でも気づいてくれない。なんとも複雑だ。
 先月末から今月にかけて、大津の坂本、京都、仙台、盛岡と遠出をした。日常から非日常にスイッチを換えるだけで、精神がリフレッシュする。気持ちの置き場もずいぶんと違ってくる。
 その日の京都は暑かった。しかも「土用の丑の日」だという。町中の旅館に2泊したので京懐石料理に食傷気味だった。夏の京料理の定番は、ハモ、湯葉、アユ…。きれいで上品なのだが、毎度毎度では辛い。無性にウナギが食べたくなった。
 昼時は、嵐山・嵯峨野周辺にいた。食べ物屋さんはあるが、ほとんどが懐石料理のようだ。「無理か」と思ったら料亭風の店があった。けばけばしい看板がない。外からでは、何を出しているのかわからない。ふと見ると、若いお兄さんが客の整理と呼び込みのようなことをしている。「ここでは何を食べさせてくれるのですか」と尋ねると「ウナギです」と来た。混んでいるようだが、入ることにした。
 結局、1時間近く待った。しかし、客への対応が見事だった。まず客を差別しない。1人だろうが5人だろうが、待っている順番に空いた席に座らせる。「お待たせしてすみませんね」という詫び方にも、心がこもっている。当然のように蒲焼きの味は抜群で、満足して店を出た。
 盛岡では、街のラーメン屋でじゃじゃ麺を食べた。壁には「おいしいじゃじゃ面の食べ方」という説明書きが張ってある。いろいろ尋ねていると、料理を作っていたおばあさんが「初めてですか」と言って、お節介にならない程度に食べ方を教示してくれた。実に温かかった。じゃじゃ麺もうまかった。
 いい町とは、暮らしやすい町だという。気持がギスギスせず、相手に対する心配り、思いやりが自然にできる人たちが、たくさんいる町。それが普通に、日々の営みとして行われていれば、旅人にとっても心地よい、思い出が残る町になる。
 声高に観光を叫んでも、金をかけてハコものをつくっても、中身が伴っていなくては、リピーターは増えない。ガイドブックに載っていない路地を歩き、暮らしという視点で文化や歴史の集積にふれる。そして、お国言葉で人間同士の会話をしながら、町の風やにおいを感じられる。それこそが旅の楽しさだと思う。
 コンビニもファミレスもチェーン店も、すべて経済と効率化を前提とした中央制御による画一化マシーンだ。全国どこでも形態が同じなので気が楽といえば楽だが、コンピューターが崩壊したら機能不全に陥ってしまう。それよりは、人間らしさが充満しているアナログな店がたくさんある町がいい。「もう1度行ってみたい」と思える店や界隈がある町が…。

(安竜 昌弘)

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