248号 直して使う(2013.6.30)

画・黒田 征太郎

修理を通して生まれる品物への愛着

 直して使う

 お気に入りの革製ショルダーバッグを修理に出した。ずいぶん使い込んだので、肩掛けのベルトが傷んでしまった。時の経過とともに革の風合いが出て、自分のバッグとしての愛着がかなりある。お払い箱にするのは忍びなく、行きつけの鞄屋に頼んでメーカーに送ってもらった。
 修理には、予想外に時間がかかった。1カ月たっても音沙汰がない。待ちきれなくなって鞄屋に足を運んで尋ねてみると、「混んでいるみたいです。ベルトごと交換することになりました」とのことだった。そしてほぼ2カ月たって、直ってきた。
 バッグを開けると、カメラやシステムノートの重さに耐え続けた古い肩掛けベルトが入っていた、そしてもう1つ、常用している薬があった。そこには「お客様の私物です」という手書きのメモが添えられていた。修理に出すときに、バッグに付いているポケットの中をチェックしたつもりだったのだが、漏れたらしい。その丸っこい字を見て、何となく嬉しくなった。
 こういう経験は、初めてではない。何年前だったか、愛用していたペリカンの万年筆を落としてしまったことがある。不用意にズボンのポケットに入れていたら、するりと落ちたらしい。すぐ気づいて来た道を戻ったら、車に轢かれて胴体の軸が割れていた。美しい茶縞が見るも無惨なことになっていた。
 どうしてもあきらめきれなくていると、万年筆マニアの知人が「ペリカンジャパンに問い合わせてみたら」と教えてくれた。電話すると「直せます。お送りください」と言う。この大量生産・大量消費時代にこういう世界もあるんだ、と感激した。
 そして数週間後、ペリカンのロイヤルブルーと思われるインクを使った万年筆文字で、「この度はありがとうございました。何かありましたら、遠慮なく何なりとお申し付けください」と書かれた手紙とともに、万年筆が戻ってきた。その便箋にはペリカンのロゴが印刷されていた。
 この、使う立場の自分と作る立場の職人さんとのキャッチボールともいえるやりとりは、心地いい。修理されて戻ってきた品物を手に取ってみると、機械的に修理されたのではないことがすぐにわかる。バッグや万年筆を入念にチェックしているのだろう。さらに輝きを増して戻されてくる。そこには「こんなに使ってもらってありがとうございます」という思いが見え隠れする。人間同士の気持ちの交流があり、温もりがある。
 そんなことがあってから、修理代金がべらぼうに高くなってしまわない限りは、極力直してもらうことにしている。ただそれには、買うときに熟考して、自分のセンスに合っているもの、飽きずに長く使えるものを選ばなければならない。そして、自分のスタイルを確立する必要がある。とはいえ、安易に衝動買いをしてしまいかなりの品物がお蔵入りしているという、現実もある。実に後ろめたい。
 丁寧に直して使いたい気持ちと、突然欲しくなって何も考えずに買ってしまう浪費癖、そのどちらも持っているだけに胸を張れない。人間とは、そうした矛盾をはらんでいる生き物なのだろう。

 車に轢かれ、胴体が割れてしまったペリカンの万年筆は、その後車上荒らしに遭って持ち去られてしまった。思いがけず犯人が捕まったので、間接的に「もし残っているなら万年筆を返して」と言ってもらったら「海に捨ててしまったのでない」という答えが返ってきた。悲しかった。

(安竜 昌弘)

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