つかず離れず 見て見ぬふりをする温かさ
おがまいねぐ |
「あまちゃん」の最終週と楽天ゴールデンイーグルスのペナントレース制覇が重なり、東北人のはしくれとしては、夢心地のような9月末だった。そこに共通項としての震災があるからか、どうしても涙なしでは見られない。でも、前に書いたように恥ずかしさを通り超して開き直っている。
震災のあと、祖母の夏を心配した主人公のアキがメールを送る。そして帰ってきたのが「おがまいねぐ」のひと言だけ。震災、原発事故を体験した当事者にとって、これほどぴったりした言葉はない。おそらく、「そっとしておいてもらった方が、気が楽です」というニュアンスも含まれているんだと思う。でも、「わたしのことはいいですから、放っておいて」と言われるより、優しくていい。
原発事故のあと、にわかに脱原発のうねりが広がり、ごく普通の市民が抗議行動に参加するようになった。この脱原発活動だけでなく、ほとんどの人たちが「何かをしなければ」と思い、「自分にできることはなんなのだろう」と、悩んだ。でも、福島の人たちは一部を除いて、声を荒げることも、大きな声で叫ぶこともなく、静かだった。
そんなとき、ツイッターであるやりとりを目にした。仙台在住の若い男性が福島在住の女性に「福島から声を上げないでどうするんですか。思いや怒りを発信するべきです」と行動を迫ったのだ。そこで女性は、こう書き込んだ。「余計なお世話です。そっとしておいてください。やりたければ、お勝手に」。なんだか、女性の気持ちが胸にしみた。
宮城と福島。同じく被災地だが、決定的に違うことがある。原発事故による放射能被害。日々、放射線による低線量被曝と向き合い、その影響を気にしながら悶々とした時間を過ごしている身としては、「原発反対の行動を起こさなくては」という思いはあるのだが、体が動かなかったのだと思う。そんな状況で煽られると、行動しないことが罪だと感じてしまい「わかってるよ」と、つい言葉を荒げてしまう。そんな気分だったのではないか。もう少し時間が必要だったのだ。
「あまちゃん」は震災を体験した人とそうでない人、その内と外の心情の対比が、よく描かれていた。被災地に入ったのはいいのだが被災者とどう接していいのかわからず、必要以上に自己規制してしまうボランティアたち。腫れものに触るような気の遣い方が、かえって気まずさを生んだりもした。
逆に何かをしてもらうことに慣れずに「もうしわけない」という思いが気詰まりになり、落ち込んでしまった被災地の人たち。なかには、してもらうことが当然になってしまって、ひんしゅくを買うケースもあった。だから、つかず離れずで見て見ぬふりをしながら寄り添い、見守り続ける「おがまいねぐ」の精神、距離感が、絶妙なのだと思う。その関係は自然で、実に温かい。
震災から2年7カ月。いろいろあった。これからもあるだろう。それでも生きていく。でも、おがまいねぐ。気を遣うとお互い疲れますから。大丈夫ですよ。
(安竜 昌弘)
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