

命を尊重せよ。いかなる圧力があっても人を殺すな。
横山正松さんのこと |
37年になろうとする記者生活のなかで、記憶に深く刻まれた忘れられない講演というのが、いくつかある。その1つが生理学者で医師の横山正松さん(1913〜1992)のもの。ただただ、その生きざまに圧倒された。
1987(昭和62)年の11月、土曜日の夜に行われる講演会の取材が回ってきた。もともと出不精でノンポリ。できればこたつにでも入ってのんびりしていたいところだが、仕事となればそうも言っていられない。気乗りしないまま、会場の市文化センターへと向かった。
あらためて資料を確認すると、テーマは「核戦争防止」。講師の肩書きは、福島県立医大名誉教授とある。横山さんと言えば、知る人ぞ知る筋金入りの反核学者なのだが、当時はそんなことも知らなかった。おそらく市民も同じで、部屋には10人ぐらいしか、集まっていなかった。そうしているうちに、横山さんらしい小柄なお年寄りが、黒板に向かって、何やら難しい数式を書き始めた。それが終わるころには30人ぐらいの人になり、「世界平和とヒポクラテスの誓い」と題する講演が始まった。
新潟県小千谷の小作農家の三男として生まれた横山さんは、苦学して医者になった。中学3年生のときに急性骨髄炎を患い、その治療代を払うために家が大変な思いをしたことがきっかけだった。「貧しい人のために医者になろう」と新潟医科大に進学し、病理学教授・川村麟也の薫陶を受けた。その後応召され、戦地で軍部に人体実験を強要されたが、川村教授の教えを守って拒否。戦後、特に晩年は、自らの経験や医師の立場から核戦争を未然に防止する運動に身を投じた。
黒板に書いていたのは、核分裂と核融合を表す数式だった。そして「70歳を超して物理学の勉強を始めたんですよ。核にかかったら、医者が1つの命を救うために行っている行為は靴磨きのようなものです。1つ間違うと、この地球が無になってしまうのですから」と訴えた。そこにあったのは「命を尊重せよ。いかなる圧力があっても人を殺すな。人を殺すことに知識を貸すな」というヒポクラテスの誓いであり、医者としての良心だった。
このとき、横山さんは74歳。5年後には帰らぬ人となったから、出会いはまさに、一期一会といえた。「反核を訴え続けているせいか、左翼思想家と見られてしまうんですが、わたしは命を尊んでいるだけです。宗教だって一生懸命じゃない。強いてあげれば、朝陽に手を合わせるくらいでしょうか」と苦笑いしながら話していた横山さんの姿が、いまも忘れられない。
なぜいま、横山さんなのか。実は何日か前、自らを「批評家」と呼ぶ新藤謙さんから『人間愛に生きた人びと』(コールサック社刊)という本が送られてきた。そのなかに、思いがけず「『人への愛』を貫く—横山正松と医の倫理」という章があった。それを読み、さらに福島県立医大講師・末永恵子さんの「生理学者 横山正松と戦争」という文章に接して、横山さんのことを、より身近に感じることができた。
あのとき、激しく魂を揺さぶられたのは、横山さんの人間としての迫力だった。そこには小腸運動の権威者という社会的地位に対するおごりなどなく、物理学の偉大な発見が結局は原爆、水爆の開発につながった歴史を憂い、行動を起こしたという、一途で真摯な思いだけがあった。しかもそれは純粋で果敢で、深い人類愛に満ちていた。
安全だと信じさせられてきた核が事故を起こし、多くの人が苦しんでいる。でもいま社会は、ひたすら強く明るい方へと向かっていこうとしている。そんな時代に危うさを覚え、横山さんがしてきたことと向き合う必要を感じる。実体のないバーチャルな世界だからこそ、人間を人間として診て命の大切さを教え、直接向き合って核の恐ろしさ、悲惨さを伝え続けた横山さんの姿を思い出す。そのたびに、横山さんの人生に共感し、姿勢を正す。
(安竜 昌弘)
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